2015/05/17

田村通り大山道(その2)


大山道探訪・田村通り大山道(2)

【 小田急・伊勢原駅から大山へ 】


【 田村道の概要 】

辻堂・四ツ谷前不動
  「田村通り大山道」は、かつての旧東海道・藤沢宿の西、辻堂村の「四ツ谷立場」で東海道と分岐し、四ツ谷不動「一の鳥居」から北西へ、相模原台地の南端を沿うようにして田村の渡しで相模川を渡ると、伊勢原を経由して大山へ至る参詣の道で、その経路は、ほぼ現在の県道・伊勢原・藤沢線へと受け継がれている。

 参拝者らは、大山への参拝を終えた後、大山の神(大山祇神/石尊大権現)が男の神であったことから、方詣(かたもうで)は縁起が悪いとして、富士山・浅間神社(静岡県富士宮市)の木之花咲耶姫命(大山祇神の娘とされている)の両方を参拝するといった慣習があったが、江戸時代中期になると、より近くで同じ女の神である江ノ島・弁財天を参詣し、鎌倉、金沢八景などの景勝地を巡り、江戸や房総方面へと帰る物見遊山をかねた参拝経路が使われるようになったと言われている。

 大山山頂への参拝を許された夏山(旧暦・6月27日~7月17日)の一時期、昼夜を問わず行き交う参拝者で大いに賑わい、沿道には臨時の茶屋も立つなど、大山道の中でも表街道といわれたほど賑ったという。



5.小田急・伊勢原駅(北口)から石倉橋へ

小田急・伊勢原駅北口
小田急線の線路で遮断された田村道は、駅の北口広場から北西にのびる「竜神通り商店街」へと続く。 商店街の出口で下糟屋宿から伊勢原に至る旧大山道に出合うと、左折し50m程で「伊勢原小学校入口」交差点に出る。

 現在は十字路となっているが、明治初期の地図では、まだ伊勢原駅北口に通ずる道路はなく丁字路で、南から大磯・平塚方面からの大山道が合流していた。 そこは伊勢原集落の南東端に位置し、田村村、下糟屋村、大磯・平塚の3方向からの大山道がこの辺りで一つになって、大山へと向かったと考えられる。

 江戸時代の「新編相模国風土記稿」には、『江戸より十七里、往還四条、三条は大山道で東海道四ツ谷からの道、大磯・平塚辺からの道、下粕屋村(下糟屋)からの道で、村の東南で合流して一条となる、幅三間余り(約5.5~6メートル程)なり。』と記されている。

 「伊勢原小学校入口」交差点で、県道61号線を右へ向かったところに「伊勢原火伏不動尊」のお堂がある。 入口に建つ「火伏不動尊」の由来文によると、『文化十三年(1816)の大火の際、伊勢原の全町内に燃え広がった猛火が、この不動堂の場所でピタリとおさまったことから、「火伏の不動さま」と呼ばれるようになった』と記されている。

北口・竜神通り入口
田村道(竜神通り)
伊勢原・火伏不動尊


伊勢原大神宮
県道をさらに北西へ進んだ道路右側に「伊勢原大神宮」がある。 江戸時代初期の元和六年(1620)伊勢国の人・山田曾右衛門と鎌倉の人・湯浅清左衛門が大山参詣の際、当時、千手原と呼ばれたあたりが開墾可能であることを知り、中原代官の成瀬五左衛門の許可を得ると開墾を始めた。

 さらに新しく開拓した地の鎮守として故郷、伊勢神宮の神を勧請し、祀ったことから「伊勢原」の地名の由来にもなったとも言われている。

 やがて、周辺の集落(田中村・板戸村など)から人々が集まり、新しく神社を中心として矢倉沢往還と大山道の宿場が形成されていったという。 現在は、小田急・伊勢原駅前周辺に街の賑わいが移ってしまった感もあるが、元々はこの辺りが伊勢原の街の発祥とも言えるだろうか。

 「伊勢原大神宮」前で道は右へ緩やかに曲がると、国道246号(旧矢倉沢往還)の「伊勢原」交差点に出る。 かつては、この辺りから伊勢原大神宮辺りの街道沿いに旅籠、茶店などが軒を連ね、大山詣での夏山の季節には、夜も燈火が明々としていたという。

 「矢倉沢往還」は、江戸・赤坂御門から矢倉沢・関所(南足柄市)、足柄峠を経て駿河国東部に通じ、沼津宿(沼津市)や、吉原宿(富士市)で東海道に接していたことから、東海道の脇街道として東海地方、相模国内陸部から江戸への物資の輸送、江戸庶民の「大山詣で」の参詣路としても利用されてきた。
 一般に伊勢原以東の道標などには、大山道、厚木道、大山街道、厚木街道、相州道、青山道(相州から江戸に向かう時の名称)等の名称が使われることが多く、また、秦野以西では冨士道と呼ばれることもあった。



「伊勢原高校入口」交差点
「伊勢原」交差点で国道246号(旧矢倉沢往還)を横切り、北上すると「片町」バス停の先の、「伊勢原高校入口」交差点で、道は二分する。 (ただし丁字路に見えるが実際は十字路である)

 直進して北へ行く道は、日向薬師、厚木市七沢、津久井方面へと向かう道で、古くは北関東と西湘地方(大磯、小田原など)を結ぶ主要な道でもあった。 左折し道幅がやや広くなった方が、大山に至る道である。(近年に一部分道路整備が行われたが中断している)

 自動車部品メーカーの「市光工業(株)」の工場前を過ぎると、左側に「五霊神社(ごりょうじんじゃ)」がある。 この辺り、古くは七五三引(しめひき)村と言い、明治初期の地図にも上糟屋村(上粕屋村)字七五三の地名が記されており、神社前の車道をまたぐようにして大山不動尊・二の鳥居が建っていた。

 直ぐ前のバス停にも「〆引(しめひき)」の名があるように、七五三引(〆引)とは注連(しめ)、すなわち土地の領有区域を示す標識、道しるべを意味し、これより大山の神の神聖な領域に入ることを示すとともに、不浄なもの、邪気、災いなどの侵入を防ぐ境界線を示した場所であったのだろう。
 古い資料によると、毎年、大山の例祭期間中(夏山:旧暦6月27日~7月17日)には、鳥居に注連縄(しめなわ)を張り、これより上(大山より)を神仏の霊域と定め、霊験・精進・禊ぎの場としたとある。

 その後、「二の鳥居」は大正12年(1923)の「関東大震災」で倒壊、昭和3年(1928)に復旧されたものの、戦後の交通事情の変化により支障が生じたためか(昭和44年にクレーン車が接触事故を起こし破損したからとも、バスなどの車両の大型化にともない、通行に支障が生じたからとも言われる)、撤去されてしまったが、その先の大山道を横切る形で東西に延びる「東名高速道路」の高架下をくぐった所に、平成3年に新しく「二の鳥居」が復元されていて、鳥居正面からは大山の頂を拝むことが出来る。

旧二の鳥居跡・五霊神社前
五霊神社
「〆引」バス停


二の鳥居
現在の「二の鳥居」前で、大山道(県道61号)が県道611号と合流する交差点の左斜め前方、「伊勢原市立山王中学校」のグランドのフェンス沿いに旧田村道の痕跡を見ることが出来る。

 ただ、明治初期の迅速図でははっきりと記されていた田村道も、大正時代の地形図には既に消滅しており、それから百年以上経つ今日においては、草木が茂り、畑地のあぜ道や、民家の敷地境界などに僅かに痕跡を残すのみとなっている。

 伊勢原は、大山山塊を源とする大山川(鈴川)が平野へと駆け下った扇状台地に拓かれた街であることから、「二の鳥居」を過ぎたあたりから、道(県道611号・大山 坂戸線)は徐々に登り坂の様相を鮮明にし、大山の門前町に向いひたすら上って行くことになる。

二の鳥居前の交差点
旧田村道方向と大山
山王中学横・旧田村道跡


「石倉橋」交差点・家並み消滅
県道の「石倉橋」バス停手前で、右側からくる「青山通り大山道(柏尾通り大山道)」が合流、さらに「石倉橋」の丁字路交差点で左側から旧田村道が合流してくる。 「石倉橋」と言っても県道に橋は無く、地名だけが残る。

 現在、周囲は「第二東名高速道路」とその関連道路建設の為、周辺住宅などの大規模な立退き、撤去が進み、以前の風景も思い出せないような変貌ぶりになっていた。

 交差点近くにあった「石倉下公会堂(石倉自治会館)」の建物も消滅し、その庭先の道路沿いに建っていた不動尊像の立派な道標や庚申塔などが数基保存されていたが、それも撤去されたのか、無くなっていた。

 当時、すでに風化の進んでいた石造の不動尊座像の台座部分の道標には、四面にそれぞれ「此方 はたのミち」、「此方 ひらつかミち」、「右 いせ原 田むら 江乃島道」、「左 戸田 あつき 青山道」と刻まれていた。 いずれにも大山方向への記載はなく、山から「大山詣で」を終えて帰って行く人々に、それぞれの方角を示したものと考えられるが、もともとはどの辻に建っていたものであろうか。 いずれにしても江戸・や、戸塚・保土ヶ谷、藤沢、平塚、大磯、小田原方向から、大山道はここで一つになり大山へと向かったことが想像できる。

旧田村道跡(アパート横あぜ道)
旧田村道跡住宅地内(推定)
旧田村道跡カーブの左手前(推定)





6.石倉橋から大山ケーブル(バス停)へ

「石倉」交差点手前・「石倉」バス停
「石倉橋」交差点から高速道路の建設工事が進められているなかを、「石倉」交差点へ。 右側から合流してくる県道603号(上粕屋厚木線)は、かつての「荻野・八王子大山道」とみられ、明治初期の地図では、少し上った次の丁字路で合流していたとみられる。

 交差点を渡った右奥には「石倉神社」の小さな社がある。 この辺り道路の改修工事が遅れているためか、道路幅も狭いままで交通量も多いいことから、歩行には注意が必要である。

 「石倉」を過ぎると道は、山並みが迫る山里の風景へと変わり、「子易・比比多神社」の鳥居が見えてくる。 天平年間の創建とも伝えられ、別名「子易明神」と称し、安産子宝の守護神としても崇敬され、拝殿前(向拝)の柱は、かつて安産のお守りとして参拝者が少しずつ削って持ち帰ったために、少しずつ細くなっていて、現在は禁止の注意書がしてある。 
 ちなみに、大山山麓には三ノ宮地区にも「三ノ宮・比々多神社」があるが、いずれも祭神が異なることから直接の関係は無いようである。

子易・比比多神社前大山道
子易・比比多神社拝殿
拝殿柱・注意書
拝殿柱


旧道・這子坂
「子易・比比多神社」を過ぎ、急坂を上って行く途中の「這子坂」バス停のところで、旧大山道は県道から左の小道へと入る。
 
 児童館の前を過ぎ、右の登坂が「旧大山道・這子坂」である。坂の名の由来には、這って上るほどの急坂だったからとか、この坂を這っていた赤子が鷲にさらわれたからなどの言い伝えもある。

 坂を上りきったところで右に曲がると、再び県道へ戻る。 この辺りの県道も結構な急坂である。
 JA大山の直売所前を過ぎ、大きく右に曲がると諏訪神社があり、その先に県道を跨ぐ様にして「三の鳥居」が建っている。
 
三の鳥居
「三の鳥居」は、銅製の大鳥居で説明板によると「天保十五年(1844)武州(武蔵国)所沢の阿波屋善兵衛が創建し、大正十年(1921)江戸消防「せ組」再建したが老朽化のため、日本鋼管㈱の開発した耐候性銅板で建立 昭和六十一年十二月吉日」とある。
 
 ただ、江戸時代後期に編纂された「新編相模国風土記稿(天保12年(1841)完成)」には、『坂本村小名新町に銅の鳥居あり之(これ)当山の入り口なり』と記されていることから、天保十五年以前にすでに銅製の鳥居が建っていたことになる。

 大山の門前町は、この「三の鳥居」から始まる。 大山川(鈴川)の谷に沿うようにして、上流へと新町、別所町、福永町、開山町、稲荷町、坂本町の順で谷間を上る六町から成る、ここはその入り口でもあった。

 江戸火消しの流れを引き継いだ消防「せ組」が再建したことから、地元では「せ組の鳥居」とも呼ばれていて、大正10年頃に描かれた「相模国大山全図」絵図には、石垣の上に建つ鳥居と左右に石灯籠、さらに鳥居前の参道は階段が描かれている。 これが「せ組」が再建したという鳥居であろうか。

 現在の鳥居は、昭和六十一年に道路状況を考慮し、交通に支障のない様にと道路幅を拡げ、建てかえられたものである。 資料によると、かつては「子易明神』付近からの大山道は、所々に設けられた石段の道を大山へと登ってきたようで、ちなみに「子易木戸(子易明神)」から「三の鳥居」までの間の石段などを取り除き、車道として整備されたのが大正5年(1916)のこと。 大正9年(1920)に、伊勢原方面からの乗合自動車(バス)が「子易明神前」まで開通し、さらに同14年(1925)には、「三の鳥居」前まで開通している。



「二ツ橋」(県道右側に入る)
さらに、県道の改修・造成工事により、現在の「大山ケーブル」バス停(終点)まで延長されたのは昭和42年(1967)のことである。

 「三の鳥居」を過ぎたところで、県道右側に小さな古い石橋がある。 一見すると民家の玄関かと見過ごしてしまう。 側溝のような流れが僅かに残されているが、かつては小さな橋が二つ架かっていて、「二ツ橋」と呼ばれ、江戸時代には高札場があったとされている。
 さらに、当時はまだ、道路(県道)の左(谷側)に遮るものはなく、眼下に山麓の風景が広がる見晴らしの良い所であったと言う。 

「二ツ橋」の石橋
「二ツ橋」の旧道跡
「二ツ橋」の小祠


「大山駅」バス停
大山川の渓谷に架かる赤い欄干の「新玉橋」を渡ると、左側から県道611号の新道(大山バイパス)が登ってくる丁字路に出る。 道の向いに「清水屋」さんという食堂を兼ねた土産物店があり、その店先に「大山駅」という名のバス停がある。
 
 近くに鉄道の駅があるわけでもなく、長年疑問に思っていたが、昭和10年に乗合自動車(バス)の路線がここまで延び、昭和2年(1927)に開業していた小田急・伊勢原駅からのバス路線が「清水屋」さんの前で終点となった際に、「大山駅」という名前が付けられたという。

 当時、鉄道駅を始発とし、そこからのびるバス路線の終点などにも、○○駅という名前が付けられることがあったという。 鉄道も乗合自動車(バス)も、同じ公共交通機関という重要な役割を持っていたことから、鉄道線路の延長線上に乗合自動車(バス)もあるという思いがあったのかもしれない。

 昭和42年(1967)にバス路線は、さらに坂を上り、「大山ケーブル」バス停(現在の終点)まで延びると、「大山駅」バス停も、ただの通過点になってしまったが、名前が残っているだけでも何となく嬉しい。
 数十年も前ではあるが、大山からの帰りは、よくここまで下りてきて、帰りのバスの時間まで、「清水屋」さんのカツ丼とビールで過ごしたものである。 その頃は、週末にまだ「大山駅」始発の「伊勢原駅」行きの帰りのバスが店先の駐車場に待っていて、日に何便かあったような記憶がある。



新玉橋(大山川)
大山駅バス停(県道交差点)
丹沢大山国定公園


旧参道
「大山駅」バス停からは、大山川(鈴川)の谷間に沿うようにして、加壽美(かすみ)橋で県道から右へと入ると、旧参道の坂道の両側に、門前町らしい趣のある家並が続く。
 かつて石段が敷かれていた坂道は、車道として改修されたが、参道の道幅は昔と殆ど変わっていないのではないかと想像される。

 先導師(御師)の方々が営まれる宿坊には、入口に歴史を感じさせる立派な玉垣が廻らされ、如何に多くの人々が関東一円から講中を組織し、この大山に訪れていたかが伺い知れる。

 大山は、古くから雨乞いの神としても知られ、特に農業や、消防(火消し)、魚市場関係、髪結い等々、水に関係する職業の人々からの信仰が篤かった。 そこには、江戸時代からの御師(おし)の存在が大きかったと言われている。
 元々は、大山山中で僧侶や修験者として活動していた人々が、麓に住みつき祈祷を生業とし、あるいは関東各地で大山不動尊・石尊大権現信仰の布教活動を行ったことで、その後の「大山詣で」隆盛の基をきずいたとも言われる。

 だが、江戸中期には140~50軒もあったと言われる先導師(御師)の宿坊も、近年は社会構造の変化や信者の高齢化などで各地の大山講中が減少し、現在は40軒ほどになってしまったという。
 宿坊の中には、講中の信者以外にも、一般の旅行者の宿泊を受け入れるなど旅館を兼ねるようになったところもあるようだ。

小田原道・禊の大滝
参道途中にある阿夫利神社社務局(旧八大坊下寺跡)前で、左側の小道に入ると、県道へ出る手前に中央橋(くつわ橋)がある。 ここから県道を横切り、向いの「武田旅館」横の小道を小さな渓流沿いに登ってゆく道が「大山古道(旧小田原道)」で、橋を渡った所にその道標が残されている。

 「小田原道」は、大山門前町からイヨリ峠を越え、旧寺山村(秦野市)、十日市場、旧曾屋村(秦野市)を経て、小田原方面にいたる道で、県道入口から沢沿いに少し上った所にある「禊の大滝」で身を浄めた大山詣での信者たちが門前町へと入って行った。 まだ車が一般的でなかった昭和の初めごろまでは、近隣の村々の生活道路としても使われていたという。

 加壽美(かすみ)橋から旧参道の坂道を通り、愛宕橋を渡ると再び県道に出る。 行き交う車に注意しながら坂道を上って行くと、右側を流れる大山川(鈴川)の向こう岸に「開山堂」が見える。


阿夫利神社/社務局
愛宕滝
愛宕橋(大山川)


開山堂(良弁堂)
大山を開山したという「良弁(ろうべん)僧正」を祀ったお堂で、「良弁堂」とも呼ばれ、その横には良弁が大山山中へ修行に入る際に禊ぎをしたと伝わる「良弁滝」があり、江戸時代、大山詣りの信者は、この滝で身を浄め、大山参拝へと登っていった。 江戸時代より多くの浮世絵に描かれているところである。

 「良弁滝前」バス停を過ぎたところで、県道から左へ入る坂道が旧参道である。 坂の入口に「とうふ坂」の説明板があり、「江戸時代より参拝者たちがとうふを手のひらに乗せすすりながらこの坂を登ったという。昔ながらのたたずまいが数多く見られる参道である。」と書かれている。
 
 いつの頃から「とうふ坂」と呼ばれていたのか定かではないが、坂の両側に先導師の宿坊が立ち並び、観光地化した門前町の中でも旧参道の風情を残している数少ない道と言えよう。 もともと石段の坂道だったところを、車を通すために階段を覆うように舗装していったためか、道はうねるようにして続いている。

 「とうふ坂」を登ったところで右に曲がると、大山川に架かる「千代見橋」へ出る。 橋を渡ったところで参道は左の道へと続く。 また、右へ坂道を下って行くと「大山ケーブル」バス停がある。


旧参道(とうふ坂)
大山講中・玉垣
千代見橋





7.大山ケーブル(バス停)から大山山頂

新・旧参道分岐
「千代見橋」から参道を左へ上って行くと、道が二又に分かれる。 右側が現在の参道で、食堂や土産物店が建ち並び、週末には多くの参拝者・登山者でにぎわう。

 江戸時代より縁起物として売られている「大山こま」が描かれたタイルが、階段の踊り場毎に張られ、「こま参道(こま坂)」と呼ばれている。 この参道は、大正12年(1923)の「関東大震災」後に新たに造られたもので、旧道(もみじ坂)は、左側の車道(一般車両乗り入れ規制)として改修された川沿いの道を上っていった。

 9月1日の大地震による家屋の倒壊は僅かで、数人の犠牲者がでたのみであったが、山の斜面には多くの亀裂や崩壊が発生し、大山川の渓流には大量の土砂が堆積していた。 「伊勢原町(現・伊勢原市)資料」によれば、その後に襲来した台風による集中豪雨で、9月15日深夜に発生した土石流は、凄惨な山鳴りとともに門前町の大半をのみ込み、人家140戸(65戸・75棟)が流失する大災害であったが、当時の駐在巡査(佐藤幾之助氏)の事前の適切な避難警告で犠牲者は1名にとどまったという。

 川沿いにあった参道は、損壊により早期復旧が困難であったことから、「関東大震災」後の復旧事業で民家の敷地内を通るようにして新しく参道(現・こま参道)が造られた。


こま参道
大山コマ
雲井橋


「大山ケーブル駅」
「こま参道」の最上部に元滝(本滝)があり、大山川の渓流に架かる「雲井橋」を渡ると、右手に「大山ケーブル駅」がある。 山麓駅(標高:400m)から大山中腹にある阿夫利神社・下社の山上駅(標高:678m)までを、約5分ほどで結ぶ。
 昭和6年(1931)に「大山鋼索鉄道」として開業するも、戦時中(昭和19年)に不要不急線として廃止、鋼材などは軍に供出された。

 戦後、昭和25年(1950)には再開を目指して「大山観光(現・大山観光電鉄)㈱」が設立されたが、実際に営業が再開したのは15年後の昭和40年(1965)のことであった。

「追分社」
ケーブル駅を過ぎると、「八意思兼社(やこころおもいかねしゃ)」がある。 明治維新までは、「前不動堂」があったところで、ここより山上は神聖なる場・霊域であり、茶屋以外に民家はない。
 江戸時代は、女人禁制の結界でもあったが、日中の朝8時から夕方4時頃までは、女人でも参詣の目的であれば、大山寺本堂(現・阿夫利神社・下社)までは、入山が許可されていたと言われる。 また、ここで参道が「男坂」と「女坂」に分かれるところから、現在は「追分社」とも呼ばれている。

 右が「男坂」と呼ばれ、やや傾斜がきつく尾根を沿うようにして上る。 左が「女坂」と呼ばれ、途中の「來迎院(現・大山寺)」までは、沢に沿うように上るが、「無明橋」を過ぎるとやや傾斜がきつくなり、小尾根沿いの道となる。

 阿夫利神社・下社の手前で「男坂」と「女坂」が合流する所に、江戸時代(室町時代の説もある)に大山を治めていた別当寺・八大坊の上屋敷跡があり、この他にも、「男坂」の途中には、かつては仁王門や多くの堂社が建てられ、神仏が祀られていたことからも、「男坂」が表参道であったことが想像できる。

 「男坂」を約30分程登ると、「旧八大坊・上屋敷跡」の先で左下から「女坂」が合流してくる。 ここからは整備された石段を上って行くと下社下の広場に着く。 茶店の並ぶ休憩所横から「二重の滝」、「二重社」を経て見晴台に向かう遊歩道がある。 大山の東山麓にある「日向薬師」に至る裏参道で、「日向(ひなた)越え」と呼ばれていた道である。 見晴台からは雷峰尾根を登り山頂へ至る登山道がある。

 お茶屋さんの呼び込みの前を通り抜け、石段を上って行くと、大山阿夫利神社・下社の拝殿がある。 明治維新の神仏分離令の発布される前までは、「雨降山・大山寺(うこうさん・たいさんじ)」の本堂(不動堂)があったところ。
 明治になり神仏分離・廃仏毀釈の波がこの大山から、仏教色を消し去り、山頂に鎮座する祭神は石尊大権現・大天狗・小天狗から大山祇大神(オオヤマツミ)・大雷神(オオイカツチ)・高龗神(タカオカミ)に代わり、ここより山頂・上社(本社)を遥拝する拝殿として下社が建てられた。

明治初期の「廃仏毀釈」の運動などにより大山山中の寺院や仏像・石仏など仏教に関係する全ては、焼討ち同然の破壊行為により、その多くが廃寺・消滅したという。 麓の門前町でも、御師の宿坊などにあった仏像・仏具、古文書等も、破壊や焼却処分、あるいは売却などにより多くが失われていったという。 また、これ以降、御師は先導師と呼ぶように定められた。

 その後、明治17年(1884)に大山寺は、一時「明王寺」という寺名で現在の場所に再建されるも、元の「大山寺」へ改名が許可されたのは大正4年(1915)のことである。


「男坂」・登り口
下社・参道
阿夫利神社・下社(拝殿)


「登拝門」
現在、下社から山頂に至る道はいく筋かあるが、江戸時代には霊域とされ、夏山(旧暦6月27日から7月17日)の期間だけ山頂への参拝が許された。 ただし、夏山の例祭期間であっても女人は不動堂(現・下社)までで、山頂への参拝は許されなかったという。

 下社(拝殿)の左側奥に、山頂の本社(奥宮)へと続く参道は本坂とも呼ばれ、登り口には登拝門が設けられている。 毎年、夏山例祭・初日(7月27日)の朝、江戸の三大大山講中の一つであった日本橋の「お花講」による「開門の儀式」が、300年以上経た今日においても続けられている。

 現在は、参拝者・登山者のために扉の半分が開かれていて、一年中誰でも登ることが出来る。
「登拝門」から山頂までは、二十八丁、約1時間半の行程。

 江戸時代後期の「新編相模国風土記稿」には、『男坂を登ること十八町にして不動堂あり、堂前楼門下を右に折れる山路を日向越えと言い、又不動堂の左方に路あり、これを蓑毛越えと称す。 頂上へ登る道は不動堂の背後左方にあり。およそ二十八町を攀じて石尊社に至る。 石尊社に至る以上の山路、最も嶮岨にして頂上は常に雲霧深く、ややもすれば大いに雲起り、たちまち雨を降らす。 雨降山の名はこれに因るか。 山中寒気早く至り、初冬には既に雪降る。 春に及びて猶消えず。 夏は清涼にして蚊蛇の類の出ることなし・・・・・』と記されている。

 山頂には三社の奥の院があり、前社には高龗神(旧小天狗)、本社には大山祇大神(旧石尊大権現)、奥宮には大雷神(旧大天狗)がそれぞれ祀られている。


山頂・鳥居
雨降木(ブナの古木)
大山・山頂