大山道探訪・田村通り大山道(1)
【 旧東海道・藤沢宿 四ッ谷から伊勢原へ 】
辻堂・四ツ谷前不動 |
参拝者らは、大山への参拝を終えた後、大山の神(大山祇神/石尊大権現)が男の神であったことから、方詣(かたもうで)は縁起が悪いとして、富士山・浅間神社(静岡県富士宮市)の木之花咲耶姫命(大山祇神の娘とされている)の両方を参拝するといった慣習があったが、江戸時代中期になると、より近くで同じ女の神である江ノ島・弁財天を参詣し、鎌倉、金沢八景などの景勝地を巡り、江戸や房総方面へと帰る物見遊山をかねた参拝経路が使われるようになったと言われている。
大山山頂への参拝を許された夏山(旧暦・6月27日~7月17日)の一時期、昼夜を問わず行き交う参拝者で大いに賑わい、沿道には臨時の茶屋も立つなど、大山道の中でも表街道といわれたほど賑ったという。
1.出発は四ツ谷立場跡の「前不動」から!
四ツ谷前不動と大山道入口 |
辻堂村・四ツ谷と呼ばれ、不動尊坐像の道標が建つ小堂(四谷不動)があり、その横の小道を入ると、その奥に大山前不動の「一の鳥居」がある。
藤沢バイパス(国道1号)の道路建設工事により、鳥居、不動堂、道標などは、現在の位置に移動されたことが記念碑に記されている。 旧位置は現在の藤沢バイパス(国道1号)の道路敷になってしまったという事のようである。
「四ツ谷」の地名の由来については、「四家(よつや)」、つまり四軒の家があったからともいわれていて、江戸時代には立場があったとされ、大山参りの参拝者、目当ての茶屋や旅篭が数軒あり、「大山詣」の帰りに一休みする人々で賑わっていたという。 現在の四ツ谷は、車の排気煙と騒音の行き交う幹線道路が通り、旧道の面影はない。
不動尊像は道標を兼ねており、石塔正面に「大山道」、両側面に「従是大山道」と記されていて、台座には武州江戸横山町講中、宿坊順学院仁兵衛、その他講中の人々と思われる30名ほどの名前が刻まれ、延宝四年(1676)の年号がみられる。
また、堂外には以前「是よ里 右大山みち」、万治四丑年(1661)正月建立と刻まれ、江戸浅草蔵前の講中によって建てられた古い道標があったが、今回、平成十七年七月一日再建と記された道標が立っていた。
四ツ谷・一の鳥居 |
万治四年に建てられたとみられる石の鳥居は、度々改修され、万治四年のところには御師矢野清太夫、御府内石工見世持中、天保一一年のところには御師村山八太夫、御府内石工若者中と刻まれていて、その他にも江戸の多くの町名や人名が刻まれている。
田村道の道標・石造物には、江戸の講中、商人、石工などの名を刻んだものが多く見られたことからも、この道が江戸の人々によって頻繁に利用されていたことが想像できる。
ちなみに御府内とは江戸町奉行の支配に属した江戸の域内を差し、当時、江戸の大山講や石工たちが、道標などの石塔や鳥居などの建立に尽力していたことがうかがえる。
折戸の地蔵尊・分岐 |
住宅地の中の小道は、すぐに分かれ道に突き当たり、分岐点には小さな祠の地蔵尊がある。
地蔵尊の下にある石柱は、道標も兼ねていたが風化が激しく、以前は「左大山? 右のみち(野道のことか) 享保一二年(1727)?月二八日 武州??」と、かろうじて読める状態であったが風化も進み、今回はほとんど確認不能な状態になっていたのが残念である。
折戸の地蔵尊 |
右の野道とは、折戸の集落へと向かう道で、当時は雑木林の先に畑が点在する小道であったが、今は住宅が建ち、坂の上の高台に「新湘南バイパス」が走る風景が広がっている。
大山道は、ここを左へと進む。
東電の変電所・分岐 |
東西に延びるやや広い道が、東海道沿いの二ッ谷から伊勢原へと通じる県道「伊勢原・藤沢線」である。
県道とは言っても所々道幅も狭く、交通量もそれなりに多くなるので車に注意しながら歩くことになる。
2.「餅塚の辻」から「大岡越前守」ゆかりの地・「高田の里」へ!
県道(伊勢原・藤沢線)・餅塚の辻 |
辻堂郷土史によると、かってこの五叉路あたりに、「餅塚」と呼ばれる塚があり、 「餅塚の辻」とも呼ばれていた。
「餅塚」の地名の由来は、「昔、このあたりは北隣の大庭村に属し、水はけが大変悪く、股下まで没する湿田であった。
年々不作が続いたにもかかわらず、年貢は重く、村にとっても悩みであったが、それを水田に恵まれなかった南側の辻堂村が、 もらい受けてくれることになり、この時に喜んだ大庭村の農民たちが、餅をついて祝った」という言い伝えによるものとある。
また、大庭村と辻堂村で、土地の押しつけ合いになり、大庭村が勝って辻堂分になったとも云われている。 いつ頃のことか、いずれにしても、低湿地の開墾が、いかに大変なものであったかがうかがえる話である。 やっかいものの湿田も、戦後は住宅地となり、今は昔を物語るものはない。
「餅塚の辻」で、県道(伊勢原・藤沢線)を横切り、向い側の南に向かう小道は、辻堂の「宝泉寺」へ至る道で、「光明真言道場道」(鎌倉古道)と呼ばれていた。
江戸時代、大山詣での行者は、帰路は必ず「辻堂・宝泉寺(南の寺も呼ばれた)」に参詣しないと、片詣と言って「げん」が悪いとされ、 毎年夏の大山詣の時期には、白衣行者で、昼夜を通して往来が絶えなかったと伝えられている。
この道を南へと行った国道1号線との交差点に、「大山街道入口」の名が残されている。
妙行寺の赤い屋根 |
以前歩いた時には、まだ畑の中に住宅地が点在するといった感じであったが、あれから20数年も経て、今では住宅地の中に空き地のような耕作地が点在するといった風景になっていた。
「新湘南バイパス」を右に見ながら並行するようにして途中、2ヶ所ほど旧道に迂回し、左前方に「妙行寺」の赤い屋根が見えたところで道は、緩やかに右へ曲がる。
松林村役場跡 |
さらに、「明治22年(1889)赤羽根・室田・菱沼・小和田・高田・甘沼・香川の7ヶ村が一つになり松林村となり、此の地に松林村役場が建設された。・・・・ 明治41年、松林村・鶴嶺村・茅ヶ崎村が合併して茅ヶ崎町(現・茅ヶ崎市)ができる ・・・・・ 」とも記されていた。
最後に、「大山街道に添って湘南バイパスが建設されるなどに至り、かつてのふるさと的農村風景も次第に失われつつあります」と書かれている。 現在でも、旧村名の名残りを近在の小学校などの校名に見ることが出来る。
神明大神のケヤキと大山道 |
前方右に、ケヤキの大木が見えてくると「赤羽根・神明大神」である。 さらに左には、長屋門風の塀が、如何にも旧家の趣を見せ、田村道の中でも一番のお気に入りの風景(あくまで個人的な意見である)でもある。
樹齢約 400年と言われる目通り4m程の大ケヤキである。
赤羽根・神明大神 |
この間、移り変わる時代のなかで、街道を旅する人々を見守ってきたのだろう。 夏の炎天下、汗を拭きながらこの木陰で一休み、四ッ谷まであと一息と再び歩き去っていく旅人の姿を、この木はいったい幾つ見送ったのだろうか。
前回歩いた時も、夏の暑い時期であったので、その木陰で休みながら、江戸時代の旅人もきっとこの場所で涼を求めて一休みしたことであろうと想像したものである。
すぐ横の鳥居をくぐり、参道を進むと「新湘南バイパス」の上の陸橋を渡った先に、赤羽根村の鎮守であり、平安時代、源義家(八幡太郎)の建立と伝えられる「神明大神」の本殿がある。 昭和57年、神社の境内に「新湘南道路(新湘南バイパス)」を通すため現在の場所に移築されたものである。
六地蔵 |
本在寺の前を過ぎると、丁字路の角に「高田総鎮守・熊野神社」がある。 ここ「高田の里」は、江戸時代、徳川幕府旗本・大岡氏の所領であったところ。
「熊野神社」境内の案内板には、地頭・大岡忠高(ただたか)が、「紀州・熊野権現(熊野本宮)」を勧請し建立したものと記されている。
高田熊野神社と右・大山道 |
「熊野神社」から先、「高田の辻」までは古い農家と畑に、うっそうとした木立の中を小川が流れる未舗装の細い道であったが、道は舗装され、畑や林は住宅地に、小川は水路となり、今は当時の面影もない。
街道は、すぐ先の「高田の辻」で県道・茅ケ崎線に交わる。
3.「高田の辻」から「田村の渡し」へ!
「高田の辻」 |
「堤村」は、江戸時代初期より旗本・大岡氏の本拠地であり、その菩提寺である「浄見寺」には、「大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみ・だだすけ)」をはじめ、 大岡家歴代の墓があり、地元の茅ヶ崎市では1751年(宝暦元年)、75才で亡くなった名奉行・大岡越前守忠相公をしのび、毎年春に「大岡越前祭」が行われる。
大山道は、交差点で県道・茅ケ崎線を横切り、向いの古い蕎麦屋さんの横の細い道に入る。
JR相模線・踏切 |
尚、「松風台入口」交差点手前からここまでの大山道は、上を走る「新湘南バイパス」の建設によりほぼ消滅したものと思われる。
JR相模線の踏切りを越え、少し行くと道幅もようやく広くなってくる。 小出川に架かる「大曲橋(旧間門橋)」を渡ると、道は右に大きく曲る。 この辺りを「大曲」といい、 地名はこれに由来するものだろう。
小出川(旧間門川)・河童伝説 |
働き者だった五郎兵衛さんは、毎日酒びたり、すっかり怠け者になってしまい、これでは駄目だと徳利の底を3度叩くと酒をやめ、 以前にもまして働き者になったと言う。
五郎兵衛さんは、文政7年正月2日に亡くなるが、「河童徳利」はその後、大山道沿いの見世物小屋にかざられていたと云う。 茅ヶ崎地方の盆踊り唄にも、「大山街道に名所がござる、一にサギ茶屋、 二にどんどん塚、 三に富士塚、四に河童徳利 、河童の住いは間門川、間門川 ・・・・・・ 」 と唄われた。
河童徳利は、戦時中、一時行方不明になっていたが、その後、五郎兵衛さんの遠縁にあたる方の元に返ってきたといううわさもある。 今では、河童の姿も消えた橋のうえを、大型自動車がわがもの顔で走り回っている。
景観寺前(中瀬の辻)の交差点 |
この辺りは「一之宮宿(寒川町)」と呼ばれ、相模国の「一之宮・寒川神社」の門前町として発展、さらに中原街道や大山道などの街道沿いにもあり、宿場が置かれていたという。
現在、寒川町の中心街は、街道から北側にある「JR相模線・寒川駅」周辺に移ってしまい、かつての宿場があった通りには、数軒の商店と旅館が僅かに残るのみである。
梶原景時館跡 |
しかし、江戸時代になり東海道が整備され、東西の主要交通路になったことで、この道は東海道と内陸部を結ぶ脇街道となり、交通量も少なくなったが、その後に大山信仰が、関東一円に広まると大山参詣の道として利用されるようになる。
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二又路・右大山道 |
右が大山道で、左に直進すると「六角広場」という小さな公園がある。 周辺は太平洋戦争の終戦までは海軍の「相模工廠」があり、寒川駅から鉄道の支線が引き込まれていた。
戦後の国鉄時代(JRの前身、民営化でJRとなるまで日本国有鉄道であった)までは、ここに「西寒川駅」があったが、1984年(昭和59年)3月31日の路線廃止に伴い、駅も廃止された。
前回歩いた時は、すでに廃止された後で、所々にまだ線路跡を見ることが出来たが、現在は緑道として整備され周辺住民の散歩道となっている。
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河原不動尊 |
お堂の中には木造の不動明王座像と2体の童子像が祀られていて、お堂横の説明板によると、不動明王座像は江戸時代初期の作と見られ、「宝暦三年(1753)に江戸芝口(東京都港区芝)の初音屋平吉が修理した」と、「体内納入名札」に記されていたとある。
さらに、江戸時代後期の「新編相模国風土記稿」には、この不動尊について、「村民持ち大山道にあり」と記され、村民により今日まで大切に守り継がれたことがうかがえる。
大山道・道標 |
お堂の前にある道標を兼ねた不動像には、台座の部分正面に「右 大山道」、左面に「左 江戸道」、右面に「江戸浅草黒船町 大黒屋伝四郎 同久右衛門」、裏面に「天明六年(1786)丙午歳九月」と刻まれている。
道標に刻まれた方角が、実際の経路と異なっていることから、元々は道路の向い側か、あるいは他の場所に建っていたものを、道路の改修工事などでやむなくこの場所に移設したのではないかとも想像される。 以前は、もう少し立派に見えたが下の部分が少しずつ土に埋もれてきたためか、小さく見えていた。
神川橋と大山 |
現在は、圏央道(さがみ縦貫道路)が建設され、前回歩いた土手の県道も既に廃道となっていて風景も一変、ただ土手から見える「神川橋」と大山の風景だけは昔のままだった。
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4.「田村の渡し」から「伊勢原」へ!
田村の渡場跡・石碑 |
渡船場の位置は、大雨や洪水などで相模川の流れが変わると、その都度、上・下流と変わっていたことが知られている。 昭和28年(1953)に神川橋が架けられると、 田村の渡し(一之宮の渡し)も廃止となった。
田村の渡し場跡から、神川橋のたもとで県道の下をくぐるようにして反対側に出たところに「田村・八坂神社」がある。 境内には道標・庚申塔・不動尊(破損)など石造物が数基保存されている。
寛政五年(1793)の道標には、「左 大山道」、他の一面には「右 渡し場みち 左 いやまみち」と刻まれたものや、近代に神田村青年会田村支部により建てられたと思われる道標には、左面に「右 伊勢原町ヲ經テ大山町ニ至ル 約四里」、正面に「右 大野村ヲ經テ平塚町ニ至ル 左 相川村ヲ經テ厚木町ニ至ル」、右面に「左 伊勢原町ヲ經テ大山町ニ至ル 約四里」、と刻まれたものもある。
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田村・十王堂跡 |
大山道は、「旧田村十字路」交差点で南に向う中原街道と分かれ、北へ向う。 この南北に走る道は「八王子道(旧国道129号)」であり、この辺りが旧田村宿の中心だったところであろうか。
交差点の右角に「十王堂跡」の石碑があり、さらに大山道の道標も残されている。 道標は、宝暦九年(1759)のもので、「右 大山みち」、「左 ふじさわ 江のしま かまくらみち」、「左 大いそみち」とそれぞれの面に刻まれていた。 ちなみに 「旧田村十字路」の部分は、明治時代初期の地図では、斜めに国道129号線へ抜ける道はなく、まだ丁字路であった。
大山道は、約200mほど北上した次の「丁字路」で左へと曲がり、神田小学校前を過ぎ、再び県道に合流すると、 現在の「八王子道」とも言える国道129号の広い道を横断し、真直ぐ西へ向う。
田村・八坂神社の境内に保存されいた寛政五年(1793)の道標は、本来この「丁字路」にあったものではないかと推測される。
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御霊神社 |
以前は、曲がり角手前で左側に直進する旧道の痕跡をたどることが出来たが、今回その旧道跡は民家の機材置き場の様な状態になっていて通行できなかったが、その先の新幹線の高架をくぐり、農道と化した道をすぐ先に流れる渋田川の堤までの痕跡をたどることが出来た。
渋田川の堤(土手)を上流へ向かい、「土安橋」を渡ったところで大山道は右側の渋田川の堤(土手)の道(未舗装)に入る。
明治初期の地図によると、ここから先約1キロ程は土手に沿って道があったようだが、 現在その道すじは不明確である。
現在も土手の上を未舗装の道が通っていて歩くことが出来るが、この道が古くからの大山道かは不明である。
土手の道を川沿いに遡り、再び県道に合流すると、下谷(しもや)交差点で「中原豊田通り・大山道」と交差し、いよいよ道は伊勢原の丘陵をめざす。 前方には、田園風景が広がり、その向こうに大山の頂きがそびえている。
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下谷交差点 |
水田地帯が終わるところで、「小田原・厚木道路」の上を横断するように陸橋を渡ると、道は伊勢原丘陵の緩やかな登りへと入る。 坂道の入口 「伊勢原インター入口」交差点を渡った角に、「東円寺」があり、小さな山門を入ったところに「舟繋ぎ松」の石碑がある。
小田原厚木道路・陸橋 |
城島(きじま)は東円寺の南、旧小鍋島村(現在の平塚市小鍋島)の集落にあり、平塚市立城島小学校名などにその名が残る。 周辺は、旧玉川水系(渋田川水系)の氾濫原あとに広がる水田地帯で、かつては沼地や池が点在していたことが想像できる。 ちなみに、明治初期の地図には、大嶋、下嶋、小鍋嶋、沼目などの村名が見られる。
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「舟繋ぎ松」には次のような伝説がある。
永正(室町時代)の頃、平間村に子供のない夫婦が住んでいた。 夫婦は、大山不動尊に参拝する人たちのために、「こがの渡し」に道を造るかわりに、子供が授かるようにと願かけをした。
しかし、せっかく造りかけた道も、朝になると壊されていた。 或る夜、悪さをする者を捕まえようと夜見廻ったところ、道を壊していたのは白い蛇だった。 夫婦は怒ってこの蛇を殺し「舟繋ぎの松」の根元に埋めた。
その後、道造りは順調に進み立派に出来上がると、夫婦にも男の子が授かった。 ところが、男の子は12歳のときに、病気がもとで亡くなってしまう。 夫婦は大変悲しみ仕事も手につかないほど。
ある日、夫婦が「舟繋ぎの松」の近くにある茶店に立ち寄り、亡くなった息子の話をしていると、茶店の主人が、「その男の子なら、毎日笛を吹きながらこの店で菓子を買ってゆく」と言う。
驚いた夫婦が店内で待っていると男の子が現れたが、その日に限って笛を吹いていなかったので、主人が、「今日はなぜ笛を吹かないのかね」と聞くと、男の子は哀しい声で、「今日は因縁があって笛は吹けませぬ。私の正体をご覧ください。」と言うや、殺された蛇の姿になって消え去った。
これを見ていた夫婦は、びっくりして、その後、蛇を埋めた「舟繋ぎの松」の根元に祠を造り、弁財天を祀り供養したという。
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八坂神社・鳥居 |
参道途中に庚申供養塔があり、左面「左 たむら道」、右面「右 大いそ道 宝暦十一年辛巳年(1762)」と刻まれている。 もともとは、どこにあったものだろうか。 この辺りで大磯へと南下し、東海道へ出る道の分岐があったのだろうか。
沼目団地入口・交差点 |
丁字路交差点に建つ地藏像の台座は、道標になっていて、正面に「左 大山道 右 日向道」、右側面「相州大住郡糟屋荘沼目」、左側面「天文四年(1739)」と刻まれている。 ちなみに「日向道」とは、糟屋宿を経由して「日向薬師」と向かう参詣道であり、さらに、厚木市七沢を経て、順礼峠を越え飯山観音(厚木市飯山)へと通ずる道でもあった。
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原之宿・道祖神 |
「原之宿」の道祖神がある丁字路を右折し、住宅地を抜けると「原之宿」の北側で「三福寺前」交差点に出る。
「三福寺」門前の交差点で斜めに小田急・伊勢原駅(南口)へと向うやや狭い道が、大山道である。
交差点から道は、イトーヨーカ堂横を過ぎ、ほどなく小田急・伊勢原駅(南口)に突き当たる。
小田急線で遮断された大山道は、駅反対側(北口)の商店街の道へと続く。
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