2010/06/29

鷲の育て子


【  29.鷲(わし)の育て子 / (秦野市) 】


  むかし、鎌倉の由井の里に、太郎時忠という長者が住んでいた。

  長者夫婦は、何不自由なく暮らしていたが、子どもがいないのが、玉にきずだった。
そこで、どうか子どもをさずけてくださいと、熱心に仏さまに祈った。
  すると祈りが通じたのか、男の子が生まれた。

  長者は、仏さまにさずかった子として、たいせつに育てていた。
  ところがある日、庭で遊ばせていると、とつぜん金色の鷲が飛んできて、 その子をつかんでさっと飛び去ってしまった。
  長者は、悲しんで、子どもをさがすために長い旅に出た。
だが、とうとう見つからなかった。

  そのころ、奈良に覚明上人(かくみょうしょうにん)という、えらい坊さんがいた。
上人は、りっぱな寺を建てようと心に決め、よい土地を求めて、山中を歩きまわっていた。
山の中で、上人がふと上を見ると、一本の楠(くすのき)に、金色の鷲が、 子どもをくわえてとまっていた。
  上人は、何とかして助けたいと思ったが、鷲をおどせば、 どこか遠くへ飛んでいってしまうかもしれない。
また、もし鷲が子どもを放せば、地に落ちて死んでしまう。

  上人は、寺へもどり、一心に祈った。
七日目になったとき、どこからともなく一ぴきの猿があらわれて、 子どもをぶじに木の上から下ろしてくれた。
  上人は、この子を金鷲童子(きんしゅうどうじ)と名づけて育てた。

  長い年月がたった。
  太郎時忠夫婦は、わが子をあきらめきれず、その後も手をつくしてさがしていたが、 ある日、奈良東大寺の別当・良弁僧正(りょうべんそうじょう)は、おさないとき鷲に育てられた、 といううわさを耳にした。

  夫婦は、東大寺をたずねた。
そして、良弁僧正に取りついでくれるようたのんだが、どこのだれともわからぬ者を、 取りつぐわけにはいかぬ、とことわられてしまった。
  夫婦ががっかりして帰ろうとしたとき、良弁僧正が通りかかり、山門をくぐろうとした。

  すると、とつぜん五色の光がさした。
僧正がおどろいて、光のさす方を見ると、そこに老夫婦がいた。
なぜか心をひかれた僧正は、老夫婦に近よってことばをかけた。
  話を聞くうちに、僧正は老夫婦が自分の両親であることをさとった。
時忠夫婦も、僧正のわきの下にある三つのほくろと、はだみはなさず持っていた錦(にしき)の産着(うぶぎ)を見て、 うたがいもなくわが子であることが分かった。

  親子は、別れてから何十年という年月の後、こうして再会した。

  この話が、世間にひろまると、人びとは世にもめずらしいことがあるものだと、おどろき感心した。
そして、この話はとうとう天皇のお耳にまで入った。
  僧正は、なつかしい父母とともに生まれ故郷の相模国(さがみのくに)に帰り、楽しく暮らしたという。



―――― おしまい ――――




  大山は、雨降山ともいって、雨乞いの神さまである阿夫利神社を、山頂に祀っています。

  大山寺は、その別当僧院として栄えた寺で、本尊の不動明王は、良弁僧正が祀ったと伝えられている。
  江戸時代には、大山石尊権現として庶民の信仰を集め、江戸中期には「大山詣」が盛んになりました。
大山の登り口は、現在の伊勢原市・大山からの表参道がおもで、五十軒余りの宿坊や御師の家が軒を並べていました。
  この話の伝承地である、秦野市・蓑毛にも、十五軒ほどの宿坊や御師の家があり、裏参道として栄えました。
『大山寺縁起』によれば、大山寺の開祖・良弁は、鎌倉由井郷の人で、染屋太郎大夫時忠の子 ・・・・・ とあることから、 このような話が伝承されたのでしょう。

  また、鎌倉市大町の妙法寺境内にある「鷲宮(わしのみや)」の伝承によると、天平時代、 由井長者の太郎大夫明忠(時忠ともある)が、女の子を鷲にさらわれたことに怒り、 鷲を片端から殺して腹いせをしましたが、そのたたりに苦しんで、この社(やしろ)を建てて祀ったと伝えられています。
  また、元享二年(1322)に書かれた『元享釈書(げんこうしゃくしょ)』によると、 「良弁は、近江国・志賀の里(滋賀県)の人で、母が観音に祈って儲けた子であったが、二歳のとき、 大鷲にさらわれ、奈良の高僧・義渕(ぎえん)僧正に育てられ、後に良弁僧正となり、 長年わが子をさがし続けていた母と再会し、孝養を尽くしたとの異説もある。

  このほかにも、わが子を鷲にさらわれる話は、全国的に分布している。


  (かながわのむかしばなし50選)より






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