むかし、逗子の披露山(ひろやま)をねぐらにしていた雌(めす)ぎつねの「お夏」が、 久木(ひさぎ)の雄(おす)ぎつねの「孫三郎」のところへ、うれしい嫁入りをしました。 お祝いにかけつけたきつねたちは、ちょうちんの明かりをいっせいにともして、 ゆらゆらと「七曲り(ななまがり)」の坂道を下っていったようすは、何かにつけて、 ふもとの村で話の種になったほどでした。
お夏と孫三郎は、とても仲がよく、どこへ行くにも何をするにも、いつもいっしょでした。 小坪(こつぼ)の浜には、季節によっていろんな魚がとれました。 それを漁師たちは、披露山を越えて、鎌倉や金沢へ売りにいったものでした。 ところがこの生きのよい魚は、お夏と孫三郎にもだいの好物でした。
ある日、漁師が魚のいっぱい入った籠をになって、披露山の坂道を上っていくと、 「やい、待て!」 くまざさのかげから、相撲取りのようにふんどし一つの大男が飛び出してきました。
「わしと相撲を取って、勝ったらここを通してやろう。負けたら帰れ!」 漁師の方も力自慢らしく、籠を置くと、ドスン、ドスンと四股(しこ)をふみ、 「よーし、こい!」 と両手をひろげ、がつんとぶつかると、取っ組み合い、エイヤ、エイヤともみ合いました。 だが、そのすきにお夏が、こっそり魚をかすめて、運んでいってしまいました。
次の日、やはり別の若い漁師が同じ場所にさしかかると、きれいな着物を着た美しい娘が、 にこにこしながら手まねきをしているではありませんか。 若い漁師は、目じりを下げて、魚の荷をほうり出すと、娘の方へよっていきました。 ところが、そのすきに、またも孫三郎がちょろっと出てくると、魚をそっくり持っていってしまいました。
こんなことが続いたので、小坪の漁師のあいだでは、よるとさわると披露山のきつねにだまされた話ばかりでした。 ところが一人だけ、 「きつねなんかにだまされるもんか。わしにだけは、あいつらも歯が立たんわい」 と、いばっている漁師がいました。
今日も今日とて、 「ふん、きつねなんかに化かされてたまるか」 と、ひとり言をいいながら披露山を上ってきた漁師は、道ばたで草を食べている馬を見つけて立ち止まりました。 「どうやら、あたりに飼い主のいるようすもない。ようし、つかまえてやろう」 馬がすきな漁師は、きつねに取られないように魚の荷をかつぎなおすと、そろりそろりと馬に近よっていきました。 すると、もう少しで手がとどきそうになったとき、馬はひょいと後ろへさがります。
「ようし、ようし、どう、どう」 漁師はまた、そろり、そろりと近よりました。 もう少しというところで、馬はまたひょいとさがりました。 漁師は、だんだん馬をつかまえることにむちゅうになってきて、きつねのことはわすれてしまいました。
魚の荷を置くと、 「ようし、ようし、どう、どう、どう」 そろりそろり ・・・・・・、 ひょい。 そろりそろり ・・・・・・、 ひょい。 こんなことをくり返しているうちに、魚を置いた所からずいぶんはなれてしまいました。
はっと気づいた漁師が、あわててもどってみると、魚の荷は、影も形もありません。 「やられたあ!」 漁師は、へたへたとその場にすわりこんでしまいましたとさ。
―――― おしまい ――――
逗子の辺りは、昔よりきつねの話が多く残されていて、ほかにも与三郎、はな黒、 おもよ、おせんきつねなどの名のついた狐がいたそうです。 なかでもお夏・孫三郎ぎつねの夫婦で仲良く力をあわせて人を化かす話は、 昔からよく知られています。 お夏は、披露山の頂上にいたという話と、新宿稲荷へ下る「七曲がり」にいたという話とがあります。 披露山の頂上には、稲荷神社がありましたが、太平洋戦争のときに、高射砲陣地を造るために壊されてしまい、 今は披露山公園になっています。 「七曲がり」は、逗子側の新宿から披露山へ上る急な坂道で、「古東海道」とも言われている峠道である。
孫三郎の方は、久木の孫目の辺りにいたといわれています。 現在の聖和学院の近くで、稲荷神社のあるところがそうだともいわれ、お夏・孫三郎ぎつねの夫婦ともに住みかとしていたともいわれている。 この他にも、逗子には、むかしは狐の嫁入りを見たという人が、多くいました。 嫁入り行列のちょうちんの火は、赤・青・黄色の三色で、嫁入りの明かりをみると縁起がよくないとも、 声をかけると行列が一瞬のうちに消えるとも言われていました。
映画監督・黒澤明の「夢」という作品にも、狐の嫁入りのシーンが出てきます。
(かながわのむかしばなし50選)より
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