2010/05/26

浦島太郎


【  26.浦島太郎  / (横浜市)  】


  この話は、日本の代表的な昔話の一つとして知られるお話ですが、 日本各地に残されていて、おとぎ話として語られる場合と、 それぞれ話のすじが若干異なるところもあるが、 伝説にまつわる場所や地名が残されている。



  遠い遠い、むかし。
  三浦の里に、水江浦島太夫(みずのえのうらしまだゆう)という人がいた。
  あるとき、太夫は、太裡(たいり)という仕事につくため、妻と太郎という子をつれて、 丹後の国へと旅立った。

  何年かたち、太郎がすっかり若者らしくなったある日、小舟で海へ出て、釣りをしていると、 亀がかかってきた。
  それは、五色にかがやく珍しい亀だった。 だが、太郎は、そのふしぎな亀が、 かわいそうになって、そっと海へもどしてやった。

  しばらくして、太郎がふと気づくと、舟の中には美しい女の人が立っていた。
  その人は、
「わたくしは、先ほど助けていただいた亀です。 あなたのやさしい心に、 お礼をさしあげましょう」といって、
太郎の手をとり、蓬莱山海若神都(とこよのくにわだつみのみやこ)というところにある、 美しい宮殿につれていった。
  その宮殿は、竜宮(りゅうぐう)とよばれていた。

  花が咲きみだれ、音楽がひびいている竜宮で、太郎は楽しい日をすごした。
  あっという間に三年の月日が流れ、父母が恋しくなった太郎は、ある日、 竜宮に別れを告げて家に帰る、といった。
  美しい人は、悲しそうに別れをおしみ、一つの箱をわたすと、
「また、この国に来たいと思うならば、決してこの玉手箱を開いてはなりません」といった。
  太郎は、かたく約束をして竜宮をあとにした。

  蓬莱山海若神都(とこよのくにわだつみのみやこ)を出ると、いつの間にか、 太郎は丹後の国に帰っていた。
  だが、家のあったところは川原になり、山は海になり、何もかも荒れはて、村はすっかり変わっていた。
その上、知っている人がだれもいなかった。

  太郎が一人の老人のところへ行って、両親や家のことをたずねると、老人は、 太郎のいうことがよく分からないらしく、しばらく考えていたが、やがて、
「何百年もむかしの話だということで、はっきりしないが、浦島太郎とかいう釣りの好きな男が、 舟で海に出たまま帰ってこなかったという。 お前さんの話は、そのころのことらしい」というのだった。

  竜宮にいたのは三年のはずだったが、丹後の国では三百四十七年もたっていた。
変わりはてたふるさと。
この世にいない父と母。
竜宮での楽しかった日々。
いろいろな思いが重なり、心がみだれた太郎は、約束を忘れて玉手箱を開けてしまった。
  すると、中からむらさき色の雲がまいあがり、海の彼方へ流れ去っていき、 太郎は真っ白な髪の老人に変わった。

  約束を破ってしまった太郎は、もう竜宮へもどることはできず、三百年以上もたった後の世には、 語り合う人もいなかった。
  一人きりになった太郎は、せめて父母の墓をたずねて菩提(ぼだい)をとむらおうと、 遠い東の三浦の里へ向かった。

  苦しい、長い旅だった。
  やっとふるさとの近くにたどりついた太郎は、白旗(しらはた)の峰の松に、 灯がともるのを見た。
それは、あの美しい人が、父母の菩提の地を知らせているのだった。
  太郎は、そこに小さな堂をつくり、観音菩薩の像を祀ると、一心に祈った。

  はるかな竜宮と美しい人を思い出しては、海辺の石に腰をかけて、なみだを流す太郎だったが、 ふるさとに帰って心が安まったのだろう。
静かな一生を送り、この地で亡くなったという。
  また、その後も永く生き、やがて再び海神の都へ行ったともいわれている。


―――― おしまい ――――


(かながわのむかしばなし50選)より

  ● 浦島太郎・解説文  

  浦島太郎の話は、古くから『日本書紀』をはじめ、「丹後国風土記」など多くの文献にみられ、 浦島伝説も全国に分布し、なかでも丹後半島(丹後国)の京都府伊根町には、 浦島伝説で知られる、宇良神社(別名・浦島神社)があります。

  日本書紀の雄略天皇二十二年の条に、
"秋七月、丹波国余社郡筒川(たんばのくによさのこおりのつつかわ)の人、 水江浦島子(みずのえのうらしまのこ)、舟に乗りて釣す。遂に大亀を得たり。・・・・・・ "
とある。

  丹波国は、和銅六年(713)に分割し、一部(現・丹後半島周辺)が丹後国として独立、 筒川は現在の京都府与謝郡伊根町にあたる。

  神奈川県では、横浜市神奈川区に、浦島太郎の後日譚を物語るものが、 いくつか伝えられています。


  明治初年(1868年)に焼失した観福寺(観福寿寺(かんぷくじゅじ)ともいう)は、帰国山(または護国山)浦島院と号し、 別名「浦島寺」とも呼ばれ、浦島太郎が乙姫さまから授かったと伝えられる、 観音菩薩像を安置した庵(現/慶運寺境内・「浦島観世音堂」か?)が起源とされていた。


  観福寺焼失後、菩薩像は本寺にあたる慶運寺(神奈川区神奈川本町)に移されたとのことです。

  横浜市が設置した「浦島太郎伝説関係資料」文化財案内板には、観福寿寺の縁起として、
「相州(そうしゅう)-相模国 さがみのくに )の三浦に浦島太夫という人が住んでいて、あるとき丹後の国(現在の京都府北部)に移住した。
その後、生まれたのが浦島太郎で、太郎が20歳頃、龍宮に行ったが、3年経って村に戻ってみると父母はおらず、 知人すらいない。
  そこで父の故郷、相模国の三浦に戻って尋ねてみると、実は300年余りも時が過ぎていることを知り、 仕方なく、再び亀に乗り相模の海から龍宮へと戻って行き二度と戻らなかったという。
なお、「玉手箱」を開け老人となった浦島太郎のその後については、「鶴となって飛び去った。」、 「姿をけした。」、「そのまま死んでしまった。」など諸説語り継がれていて定説はないようだ。

  そして、龍宮から丹後に戻る時にもらった「聖観世音菩薩像」と、玉手箱を開けたために白髪の老人となった太郎は、 三浦の里を訪れ、父の墓所に小さな庵を建て「聖観世音菩薩像」を安置し、それが「観福寺」の縁起であるといわれている。
  また浦島中学校近くの蓮法寺(神奈川区七島町)には、太郎父子の供養塔とされる碑がありますが、 これも観福寺から移されたものと伝えられている。

  慶運寺のすぐ近くにある成仏寺(神奈川区神奈川本町)の庭先には、「竜宮恋しや」と涙を流したといわれる涙石があります。
  この石は、波の形に似ているので、浪石とも呼ばれ、潮の干満を知らせたといわれています。

  このほか、太郎が足を洗ったという足洗川、足洗井戸(鶴見区子安中浜)もあり、 この井戸の水で産湯をつかわせると、その子は一生病気にかからないといわれていました。
  また地名にも、浦島町、浦島丘、亀住町などがあります。

  その他に香川県・荘内半島の詫間町(たくま)、愛知県・知多半島の武豊町、鹿児島県・薩摩半島の山川町など、 全国各地、数十箇所にも及ぶ。 なかには海ではなく岐阜県・木曽川流域の中津川市や各務原市などにも伝説が語られている。

  浦島伝説には、「海幸彦(うみさちひこ)・山幸彦(やまさちひこ)」の神話にもみられるように、 古代より海洋民族系日本人の深い海の底にも常世の国(異次元の世界/海神の国)があると信じられてきた「竜宮伝説」に、 中国大陸よりの「神仙思想」が加わった思想観が根底にあるのではないかとも思われる。
  元となる話は、「丹後国風土記」に記載されている「筒川島子(水江浦島子)」が原型とも言われているが、 との説もあるが定かではない。

  平安時代、中世から江戸時代には「御伽草子(おとぎぞうし)}や狂言の題材にも語られ、 話のストーリーも少しずつ異なるものが、各地に伝わってきた。
  現在、一般に知られているおとぎ話の「浦島太郎」は、明治期の小学生向け「国定教科書」に教材として記載される際、 亀の恩返しとして書き換えられたものが日本全国に広まったものといえる。



 (記念碑/その他)
   ・ 神奈川区神奈川本町/慶運寺(浦島観世音堂)
   ・ 神奈川区七島町/蓮法寺(浦島太郎父子の供養塔)
   ・ 神奈川区神奈川本町/成仏寺(浦島太郎の涙石)






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