2010/05/23

乙女峠


【  23.乙女峠(おとめとうげ) / (箱根町)  】


 箱根外輪山の一つ、金時山の尾根道を西へ下ると、乙女峠がある。
  古代より西国と東国を結ぶ道として、御殿場から乙女峠を越え、碓氷峠、 明神ヶ岳越えて坂本(現・関本)に至る古道(碓氷道)であった。
  乙女峠は、「お留め」が転じて「乙女」となったとも言われています。
この伝説は、この峠と、「とめ」という娘の悲しい物語です。




  むかし、箱根の仙石原のはずれに、としよりの百姓夫婦が、 娘と三人で暮らしていました。
娘の名は、とめといい、きりょうよしで、その上親孝行もんでした。

  とめが十七にもなると、嫁にほしいという話が、あちこちからもちこまれるようになり、 夫婦は、かわいい娘をどこへ嫁にやったものかと、とめの晴れの日を夢みながら、 畑仕事にせいをだしていました。

  ところが、ある冬のこと、父親は、かぜをこじらせ、病の床についてしまいました。
  母ととめは、いっしょうけんめいに看病(かんびょう)しましたが、病はなおるどころか、 だんだん重くなるばかりでした。

  ある日、父は、とめをまくらもとに呼んで、
「とめや、すまないね。わしは、もう長いことないで、母さんをたのんだよ」
と言って、やせた手を差し出してたのみました。
「お父さん、どうか心配しないでください。病気はきっとよくなりますよ」
父は、とめのやさしい言葉に、なみだを流しました。

  そうしているうちに、とめは、夜おそくなると、外へ出て行くようになりました。
病人が寝つくのを見てから、そっと出ていって、明け方になってから帰ることもありました。

  そのことは、いつしか村の人々の間にも、知れわたっていきました。
「とめも、好きな人ができて、こっそりと会いにいくのだろう」
と、みなはうわさし合っていました。
  そして、うわさが広まると、ふるようにあった嫁の話も、 潮が引くように消えていきました。

  父親は寝たきりだったので、はじめのうちは気がつきませんでした。
しかし、そのうわさは、とうとう父親の耳にも入ってしまいました。
  まさかうちのとめにかぎって、そんなことをするはずがない。
父親は、そう思いました。
しかし、寝たふりをして気をつけていると、たしかにとめはそっと家から出て行くのでした。

  うわさは、ほんとうだったのか。
父親は、しだいに不安になり、とめがどこへ何をしに行くのか、どうしてもたしかめずにはいられません。

  ある夜、父親は、寝たふりをしてとめの様子をうかがっていました。
それとは知らず、とめは、父が寝たのをみて、いつものようにそーっと出て行きました。
  父は、起き上がると、母親が止める手をはらいのけて、 よろめきながら夜のやみの中へ出て行きました。

  外は雪でした。
父親は、よろめき倒れながらながらも、山道をのぼっていきました。
  娘の足跡は、峠の坂道へとつづいていて、そのあとを追い峠にさしかかるころには、 ひどい吹雪(ふぶき)に、変わっていました。

  峠を越えると、父親はようやく、御殿場(ごてんば)入口の竹の下の地蔵堂(じぞうどう)までたどり着きました。
  娘の足跡は、このお堂の前で消えていて、それから先へ行ったようすはありません。

「こんなところに、何のようできたのじゃろう」
父親は、堂守(どうもり)にたずねました。

「ああ、その娘さんですかね。
わしは、この年になるまでこの地蔵堂の堂守をしているが、あんな親孝行な娘さんはいなさらねえだ。
なんでも病気の父親のために、病が治るようにと願をかけて、もう二十一日もの間、 雨の日も、風の日も、吹雪もいとわず毎晩こられて祈っておられた。
  ちょうどこん夜が満願の日、娘さんは一心に拝んでいたが、ついさきほどお帰りになっただ。
吹雪をさけて右手の道を行かれたようじゃよ」

  父親は、人のうわさなど信じて、うたがったことの愚かさを知り、 何とかわいそうなことをしてしまったのだろうと、わが身をせめました。
  どうしても、とめに追いついて、わびなければと思うと、ふりしきる吹雪の中を、 「とめ~」、「とめ~」と娘の名を呼びながら追いかけました。

  父親が、峠のところまで来ると、とめは、ふり積もる雪の中にたおれていました。
父親は、いそいで抱き起こしましたが、とめのからだは、すでにつめたくなっていました。
  真っ白な雪が、とめのなきがらをおおっていました。

  それからいく日かたちました。
父親は、元気になりましたが、とめの悲しいとむらいの列が雪をふみしめて里の寺へと向かって行った。
  こうして、親孝行なとめが、力つきて一人きりで息をひきとった峠を、いつからか、だれいうとなく、 乙女峠と呼ぶようになったということです。


―――― おしまい ――――


(かながわのむかしばなし50選)より

  ● 乙女峠・解説文  


  古くから西国から東国に通じる道は、箱根の山々を越えなければなりません。
箱根外輪山を超す峠は、南よりの箱根峠から順次北よりに、湖尻峠、長尾峠、乙女峠の四つがあります。

  御殿場・乙女峠・碓氷峠・明神ヶ岳を結ぶルートは、西国と東国を結ぶ道として、 古代から利用されてきました。
  しかし、標高差が非常に大きく、道が険しいために、箱根越えの主要な道は、足柄峠越えに変わり、 その後の箱根火山の噴火などで、いくつかのルート変更があり、近世の東海道では、箱根峠を越えるようになりました。

  乙女峠は、その後も御殿場に通じる間道として、利用されていましたが、近年、峠の下にトンネルが造られ、 道路も整備されました。
  かっての険しい峠越えの道は、ハイキングコースとして週末には、たくさんのハイカーが訪れます。
峠からは、正面に富士山が望め、つらい登りを忘れさせてくれる。

  明治時代の末(明治四十三年)に書かれた『歴史地理臨時号・箱根』には、
「乙女峠の南方には長尾峠があり、 またその南には湖尻峠(うみじりとうげ)がある。
  いずれも駿東部(静岡県)に通ずる道である。
その中で最も有名なのは乙女峠であって、道も最もよく出来ている。
この峠へ行くには、村を通り切って、十町も茅や雑草の原を行くと、おいおい道が急になって、峠にかかる。
  さて火口内壁であるから、ずいぶん勾配が急で、三十度ないし四十度もある所がある。
道は曲折蛇行して十町あまりで、三千三百尺の絶頂である。
上っていった向こう、すなわち西方には有名な『乙女峠の富士』が展開する」とあり、
乙女峠から見た富士の素晴らしさは、他に抜きんでていることが、つづられている。

  乙女峠という名には、江戸時代、仙石原に関所が設けられ、この峠の通行が禁止されたので、 「お留め山」また「お留め峠」といわれるようになり、乙女の字を当てるようになったとも言われている。

  この物語りは、乙女峠という名から、想像される主人公と、 古くからこの峠にまつわるさまざまな思いが込められて、つくりだされた伝説であろう。

  比較的新しい時代にできた伝説ともいわれ、よく知られたものです。
旧道の道端には、小石が積んであって、そこが「とめ」の息絶えた所とされていますが、 当時は、行き倒れた旅人もいたであろう。
通りがかりの人が、香華の代わりに野花を手向けていったのでしょう。



 (記念碑/その他)
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