2010/05/22

三ツ岩と撫子


【  22.三ツ岩と撫子(なでしこ) / (平塚市)  】


  平塚市と大磯町の間を流れる花水川下流の、平塚側を撫子原(なでしこはら)、 大磯側を唐ケ原(とうがはら)と呼んでいますが、河口近くの一帯は、 古くから唐ヶ原(もろこしがはら)と呼ばれ、大磯からこの辺りにかけては、日本に渡来し、 帰化した唐(から)や高麗(こうらい)出身の人たちが住んでいたといわれている。

  この話は、撫子(なでしこ)の花にまつわる悲恋の物語です。




  むかし、花水川(はなみずがわ)の下流にある唐(もろこし)の里に、 清らかに美しく、心やさしい一人の乙女(おとめ)がおりました。

  乙女には、愛しあう若者がいました。
  若者は、唐の里の生まれではありませんでした。
いつどこから来たのかは、若者が話さないのでよく分かりませんが、 おっとりした品(ひん)のよいところが感じられて、
乙女は、
「もしや、元は身分の高い都(みやこ)の方が、何かわけがあってこの地に来たのかもしれない」
そう思うのでした。

  愛しあう喜びに、乙女の胸はいっぱいでした。
でも、その幸せは、長くは続きませんでした。
若者が、唐の里を去ることになったのです。

  乙女は、目の前がまっ暗になったようでした。
どうしてよいか分からず、なん日も、なん日もただ泣いて暮らしました。
  別れの日、若者は乙女を浜辺へ連れて行き、里人が三ツ岩とよんでいる岩に腰を下ろし、 乙女をはげますようにいいました。
「いつの日か、わたしは必ずおまえのもとに帰ってくる」
  乙女は、若者のことばをささえにして生きていこうと思いました。

  唐ヶ浜(もろこしがはま)の船着き場から、すべるように出て行く若者の乗った船を、 三ツ岩の上で、乙女は手をふることもわすれ、いつまでも見つめていました。

  それから一日たりとも、三ツ岩の上に乙女の姿を見ない日はありませんでした。
  若者のことばを信じて、待ち続ける乙女の上に、月日は流れていきました。
  だが、若者からは何のたよりもとどけられず、そのうちに病(やまい)におかされた乙女は、 心を残しながらあの世へ旅立ちました。

  それからどれだけたったでしょうか。三ツ岩もいつしか砂丘の下にうもれました。
  しかし、三ツ岩をおおいかくした砂丘には、撫子(なでしこ)の花が一面に咲いて、 花びらを海からの風にゆらめかせるようになりました。
「あの撫子の花は、きっと乙女の生まれ代わったものだろう」
里人たちはそう思うのでした。


―――― おしまい ――――


(かながわのむかしばなし50選)より

  ● 三ツ岩と撫子・解説文  

  この話は、「三ツ岩と撫子」という題で紹介されている場合が多いようですが、 地元では「三ツ岩」という呼び名で知られています。
  撫子(ナデシコ)は、河原によく見られるナデシコ科の草花です。
秋の七草の一つで、カワラナデシコ、ヤマトナデシコなどとも呼ばれています。

  平安時代の女流文学『更級日記(さらしなにっき)』に、「もろこしが原に、 やまとなでしこも咲きけむこそなど、人々おかしがる」と記されているが、 この話の原形は、この頃から語られていたのかもしれない。

  この話の舞台となっている花水川(金目川の下流部分を花水川ともいう)の河口周辺は、 古くから唐ヶ原(もろこしがはら)と呼ばれ、大磯からこの辺りにかけては、 日本に渡来し、帰化した唐(から)や高麗(こうらい)出身の人たちが住んでいたといわれているところである。

  この話は、唐ヶ原(花水川河口周辺に広がる砂丘地帯)に咲く、ナデシコの花にまつわる悲恋の物語になっていて、 主人公の男性は、「やんごとなき公達(きんだち)」などと表現されている例が多いようですが、 唐ヶ原という地名にふさわしい、別の話も語られています。

  『いちおいやみこ』、という高麗からの帰化人が、一人娘と暮らしていた。
娘は、故国に残された母をしのび、いつも花水川のほとりで泣いていた。
  ある日、いつまで待っても帰らぬ娘を案じた父が、花水川のほとりに行ってみると、娘の姿はなく、 代わりに一輪のかれんなナデシコの花が咲いていた。
  それから花水川のほとりには、まるで異国に命を終えた娘を慰めるかのように、 ナデシコの花がいっぱい咲くようになったというのです。

  現在の花水川周辺は、住宅が建ち並び、むかしをしのぶことは難しくなりました。
「三ツ岩」がどの辺りにあったのか、今では知るすべもありませんが、ただ背後にある高麗山だけが、 むかしも今もかわらないようです。


 (記念碑/その他)
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