2010/05/20

尼の泣き水


【  20.尼の泣き水 / (海老名市)  】

 
 海老名市国分は、奈良時代(天平年間)相模国分寺があったところとされ、 発掘調査跡が広場になっていて、入口にある海老名市資料館「温古館」には、その模型が展示してある。
  国分寺跡から少し南へ坂を下ったところに、現在の国分寺(東光山・醫王院国分寺)があり、 境内に『尼の泣き水』の供養碑がある。
  このはなしは、天平のむかし、国分寺跡のさらに北側にあったとされる「国分尼寺」の若い尼と、 若い漁師との悲恋物語である。




  千二百年ものむかしの、天平十三年、相模国に国分寺がつくられた。
  金堂(こんどう)、講堂(こうどう)、中門(ちゅうもん)、 南大門(なんだいもん)などの七堂伽藍(しちどうがらん)、天をつくような七重塔(しちじゅうのとう)が朝日、 夕日にはえていた。
  人々は、はるか遠くから国分寺をながめて、奈良の都のようだとあがめていた。

  やがて、国分寺の近くに、国分尼寺(こくぶんにじ)がつくられた。国分尼寺の尼と、 国分寺の僧とは、親しくなることがきんじられ、二つの寺の間には、川が掘られていた。

  そのころ、国分寺の下を流れる相模川で、あみをうって暮らしている若い漁師がいた。
  漁師は、いつしか国分尼寺の若い尼と知り合い、たがいに愛し合う仲となり、 夜になるのをまって、人目をさけて河原で落ち合っていた。

  ある日の夜、尼は、日に日にやつれて行く若者を見て、
「どこか悪いのではありませぬか」
とたずねたが、若者はだまっていた。
「いうてくだされ。何か心配ごとでもあるのでは ・・・・・ 」
さらに尼がたずねると、若者は、かすかにうなずいて話しはじめた。

「このごろは、いくらあみをうっても、魚がかからないのです。
このままでは、ここでは暮らしていけません。それで、ほかの土地へ行って ・・・・ 」
ここまで話すと、若者はだまって立ち去ろうとしました。

「まえには、たくさんとれたというのに、どうしたことでしょう。
おねがいです。ほんとうのことをいうてくだされ」
尼は、若者にすがるようにしてたずねました。

  若者は、もうしわけなさそうに話しました。
「魚がにげていってしまったのです。
川につきささるような太陽の光をおそれて、にげていったのです」
それを聞いた尼は、不思議に思いました。

「太陽の光、それなら今までも同じはずなのに、どうして ・・・ 」
  そこで若者は、国分寺の金色に輝く伽藍を見つめながら、うらやむようにいいました。
「あれに太陽の光が当たり、その照り返しですさまじい光がさすのです」
  尼は、立ち上がって、月の光にくっきりとうかぶ国分寺を見つめていましたが、 それ以上何も言えず、二人はさびしそうに別れていきました。

  その日の夜、ま夜中です。
「火事だー!、火事だー!、国分寺がもえてるぞー」
  村人たちは、さけびながらとんでいきました。
  見ると国分寺が、メラメラとくるったようにもえ、きょだいな火柱となって天をこがしながら、 くずれ落ちていきます。

  おそろしい一夜が明けて、しずかな朝がおとずれました。国分寺の焼けあとは、 まだくすぶっていましたが、あの金色に輝いていた伽藍は、一夜のうちに焼けおちていました。

  それからいく日かたって、国分寺の火事は、恋にくるった尼が、火を放ったのだ、 といううわさが、村々にひろまっていました。
  そのときすでに、若い漁師に思いをよせていた尼は、放火のはんにんとして、 とらえられていました。
  そして、丘の上で、刑場(けいじょう)のつゆと消えたのでした。放火の罪(つみ)は、 それはそれは重く、鋸引(のこぎりび)きの刑になったということです。

  やがて、尼がほうむられた台地の下からは、なみだのようなわき水が、 一てき、二てきと落ちるようになり、それは湧き出る泉のように、つきることがなかったということです。
  これを見た村人たちは、
「これは尼さんが罪をわびて流している涙(なみだ)だ」とも、
「恋する若者との別れるつらさに流した涙」ともいって、
このわき水を「尼の泣き水」と呼ぶようになったということです。

  その後、国分寺へお詣りにくる巡礼(じゅんれい)たちは、
「朝日さし、夕日かがやく国分寺、いつもたえさぬ、尼の泣き水」と、
ご詠歌(えいか)をうたいながら、鈴をふって、 かわいそうな尼の冥福(めいふく)を祈るようになったということです。


―――― おしまい ――――


(かながわのむかしばなし50選)より

  ● 尼の泣き水・解説文  

  奈良時代の天平十三年(741)、聖武天皇の詔(みことのり)により、 五穀豊穣、国家鎮護を願い、全国に国分寺(僧寺と尼寺)が創建された。
  僧寺を「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」、 尼寺を「法華滅罪之寺(ほつけめつざいのてら)」と呼ぶように命じた。

  当時の日本は、「大化の改新」以後、律令国家としての形が整い、 朝廷による中央集権制度が確立し、諸国には朝廷の出先機関として、 現在の県庁所在地にあたる国府(こくふ)が置かれていた。
  さらに県庁にあたる役所を、国衙(こくが)と呼んでいた。
国衙(こくが)には、県知事にあたる国司(こくし)と呼ばれる地方官が、 朝廷より任命され、四年から六年の任期で、都より赴任していた。

  海老名には、相模国の中心である国府(こくふ)があったともいわれ、 国分台地(海老名市国分)には、広大な瓦ぶきの国衙(こくが)が建ち、 それを中心に守(かみ)、介椽(すけじょう)、目(さかん)などと呼ばれる役人の官舎や、 米などの穀物をおさめる校倉造(あぜくらづくり)の倉庫が連なる古代都市を、 形成していたとも想像される。

「尼の泣き水」の伝説の舞台となった相模国分寺は、僧寺の跡だけで、 七重塔をはじめ金堂、鼓楼、鐘楼、僧房、食堂、浴室等の建物の礎石が、発掘され確認されている。
  礎石などから、まず高さ五十メートルにもおよぶ七重塔と、 二十メートルにもおよぶ金堂を中心に、さらに講堂と中門、それをかこむように回廊がつくられていた。
  その配置と規模は、奈良の法隆寺とほぼ同じであったといわれ、 近接して建てられた尼寺と合わせると、六万六千メートル(約二万坪)はあったと言われている。

  現在全国各地に残る国分寺跡(僧寺)のほとんどが、奈良の東大寺様式で造られているのに対し、 相模国分寺は、それ以前の飛鳥時代に創建された法隆寺の様式が採用されていることから、 聖武天皇の詔以後の、かなり早い段階で創建されたものと思われる。
  国分尼寺は、国分寺より小規模ではあるが、その後の奈良・大安寺の様式を採用しているといわれている。

  国分寺は、たびたび火災にあい、「弘仁十年二月、相模国金光明寺災」または、 「弘仁十年八月、相模、飛騨国分寺災」と記された古い記録もある。
「尼の泣き水」の伝説は、こうした災害に結びつけられて、語られてきたのかもしれません。


『新編相模国風土記稿』には、「尼の泣き水」について、

  「国分寺の東南三丁を隔つ。
  傍三杉樹立す。
  相伝う古昔、蜑ありて業の妨となるを以て尼寺伽藍に放火す。
  依ってここにて死に処せらる。
  故に此名有と云う。
  或は云、此尼寺の恨事有って放火すとも云い」とあり、
放火したのは蜑(あま:潜水して海産物を採る者、普通は海女(あま)の意に使う)で、 炎上したのは尼寺になっている。

  また、現在の国分寺の門前近くに、大ケヤキ(神奈川県指定天然記念物)があり、 「尼寺の尼と恋した漁師が、朝夕舟をつないでいたケヤキの杭が、根を張り葉を茂らせて大ケヤキになった」と云う伝説も残されている。
  国分寺は建立後、たびたび天災地変に見舞われたが、 そのことが壮麗な伽藍と結びつきこの伝説がうまれたのでしょうか。

  伝説は、里人により永く語り継がれ、昭和三十年にも、尼の冥福を祈る盛大な供養祭が行われ、 現在の国分寺(東光山・醫王院国分寺)の境内に、『尼の泣き水』の供養碑が建てられている。



 (記念碑/その他)
   ・ 海老名市国分寺/東光山・醫王院国分寺
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