2010/05/17

影取池


【 17.影取池(かげとりいけ) /(藤沢市・横浜市) 】


 旧東海道の宿場町で、時宗・総本山の遊行寺の門前町として栄えた藤沢宿から、 東へ戸塚の原宿村との間に、「影取池」と呼ばれる大きな池があった。
  このはなしは、この池の名前に由来する悲しい伝説である。




  むかし、藤沢宿のはずれの大鋸(だいぎり)に、森というお大尽(だいじん)がいた。
広い屋敷には、白壁の土蔵がいくむねもならび、朝日、夕日にはえていた。
  その土蔵の一つに、いつのまにか一ぴきの蛇が、すみついていた。
森家の大旦那は、「蛇は、水神さまのお使いじゃ」と、おはんと名づけ、 酒や米をあたえてだいじに育てていた。

  おはんは、おかげで何不自由なく暮らし、十年もたつと大蛇となり、一日に米一斗、 酒五升も平らげるほどになった。
  だがそのころから、森家の栄華な暮しは、だんだんかたむき、大旦那が亡くなって、 若旦那の代になると、みるみるうちに落ちぶれていき、蔵のなかには、クモの巣がはるというありさまだった。

  それでも若旦那は、大旦那のいいつけを守り、苦労して米や酒をもとめてきては、 おはんに食べさせていた。
  ときには夜もふけてから、
「おはん、おそくなってすまん、すまん。腹へっただろう」
と、わずかの米や酒を運んでくることもあった。

  おはんは、その姿を見るにしのびなかった。
「わたしのために、若旦那はすきなお酒もやめてしまった。わたしさえいなければ、・・・・・ 」

  ある夜、おはんは、蔵をぬけ出すと、あてもなく戸塚宿の方へ向かっていった。
そして、道すじに池を見つけると、そこに身をしずめた。

  おはんは、こうしてこの池に、すみついたものの、今までとちがって、 自分で食べ物をさがさなければならなかった。
  夜をまっては野や山をさまよっていたが、いつも、むなしく池にもどってくるのだった。

  そんな日が、いく日もいく日も続いた。
そして美しかったはだも光を失い、からだはやせ細っていった。
おはんは、もう食べ物をさがしにいく気力もなくなり、空腹をこらえじっと池の底にうずくまっていた。

  そんなある日、池のそばを通りかかった村人の影が、池にうつった。
  おはんは、思わずその人影をのんだ。
するとふしぎなことに、米や酒を飲みこんだような満腹感を、あじわうことがきた。

「おお、ありがたい。これで生きながらえることができる」
  おはんは、それから池にうつった人影をのんで、暮らしていた。

  ところが村では、
「あの池のはたを通るな。池の主の大蛇に影をのまれて、いく日もたたぬうちに、死んでしまうぞ」
といううわさがひろまった。

  そうしたとき、原宿のある宿に、江戸の鉄砲うちの名人が泊った。
  それを知った村人は、大蛇退治をたのんだ。
「うーむ、うつことはやさしいが、池の底では、弾丸(たま)がむだになるばかり・・・・。
どうだ、だれか池のふちを歩いてみないか。
すれば、池の主は、その影をひとのみしようと、水面に出てくる。そこをねらってうつのじゃ」

  村人は、まっさおになった。
  この話を、すみの方で聞いていた旅の商人(あきんど)がいった。
「藤沢の宿で聞いたのじゃが、その主は、おはんという名の大蛇かもしれぞ。
なんでも、大鋸の森という家で、だいじにかっていた大蛇が、急にいなくなったということじゃ。
ためしに、池から離れたところから、大蛇の名をよんでみなされ」

  鉄砲うちは、ひざをたたいた。
「それじゃ、それじゃ、池からはなれたところで名を呼ぶんじゃ。
それなら影も池にうつらないし、死ぬことはない」
話は、そう決まった。

  つぎの日、鉄砲うちは、池からはなれたところで、鉄砲をかまえ、村人の一人が、 池のはたの木のかげから、
「おはん、おはん、おはん」
と、おそるおそるよんだ。

  それを聞いた、池の底のおはんは、
「おお、わたしの名を呼ぶのは、誰だろう。
若旦那の声とは、すこし違うようだが、わたしの名を知っているなんて、森家の人にちがいない。 きっと暮しもよくなり、わたしを迎えにきてくれたのだろう」
と、おはんは、よろこんで水面に上がってきた。

  そのとき、"ズダーン "
弾丸は、おはんの頭をつらぬき、その血で池は真っ赤にそまったという。
  その後、大蛇がすんでいたこの池を、「影取池」と呼び、村は「影取村」、 鉄砲をうったあたりを「鉄砲宿」と呼ぶようになったということです。

  鉄砲宿は、今も影取の藤沢よりに、地名として残っている。
影取池は、いまはなくなってしまったが、むかしは、広い池で東海道より一段下がったところにあり、 元文五年(1740)の東海道駅路図にも、「蛇の池、影取池」と記されている。

  今は、ただ、バス停に「影取」の名が残されているだけである。



―――― おしまい ――――


(かながわのむかしばなし50選)より

  ● 影取池・解説文  

  影取池の跡は、横浜市戸塚区の国道一号線と藤沢バイパスの分岐点から、 東南方向約百メートルの谷間にあったということです。
  戦前までは、谷間の谷戸に、水田が広がり、その中央に大きな池があり、 田植え時の満水期には、並木の松影を写していたといわれている。

  元文五年(1740)の東海道駅路図には、「蛇の池、影取池」と記されている。
また、影取村の名主だった羽太(はぶと)家には、慶安三年(1650)に記された影取池に関する文書が、 残されていたといいます。

  「影」には、人の面影という意味もあり、存在感の小さい人を、影が薄い人とか、 前兆による占いに「影占い」というのがある。
また、旅に出た人が飢えることが無いようにと、留守宅では、「影膳(かげぜん)」といって、 食事を供えるという習慣があった。

  このように、影には「分身」や「人魂」の意味合いを持ち、「影」を取られることは、 その人の「命」を取られることに等しいと考えられていた時代があった。
幕末期、日本に写真が入ってきたときに、写真をとると魂まで抜かれてしまうと、人々から恐れられた。

  影取池の伝説は、日本人のこうした「影」に対する人の心からうまれたものであろう。

  この話の類話は、各地に残っていて、神奈川県でも川崎市宮前区有馬にも、 「新編武蔵風土記稿』の有馬村の条には、「影取」という小字が記されている。
ここには、影取の大蛇がすむ池があって、池の端を通る人の影をのんだという。
  有馬の名主の娘おせんは、池の大蛇を退治しにいったが、格闘したあげく死んでしまった。
名主は、そのために池を埋めさせたが、そこから夜な夜な異常な光が出るようになった。
そこで、掘ってみると、大蛇の骨が出てきたという話が残されている。



 (記念碑/その他)
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