2010/05/16

精進ヶ池


【  16.精進ヶ池  / (箱根町)  】


 このはなしは、箱根・芦之湯から、芦ノ湖畔の元箱根に向かう、 国道1号線沿いにある『精進ヶ池』にまつわる伝説です。
  このあたりは、江戸時代に「東海道」が整備される前の鎌倉時代、 「湯坂道(旧鎌倉古道)」と呼ばれ、箱根越えの主要道であった。
  今も「曾我兄弟と虎御前の墓」といわれる五輪塔や、 鎌倉時代の石仏・石塔群が点在している。




  むかし、箱根の芦之湯(あしのゆ)に、庄治(しょうじ)という若者がいた。
  庄治は、目の病におかされ、そのさびしさをまぎらわすために、夜ごと池のほとりに立って尺八を吹いていた。
  もとより、他人に聞いてもらおうという気などなかった。ましてこの池のあたりは、 夜ともなれば人通りもなく、おそろしいほどさびしいところである。

  いつの頃からか、庄治の尺八の音がひびきはじめると、必ず一人の乙女が、 池のほとりにあらわれ、魅入られたように、聞きほれるようになっていた。
  そのような夜が、いく夜も続くうちに、女は庄治とことばをかわすようになり、 二人は、深い仲になった。
  しばらくの間、二人の恋はひそやかに続けられた。

  月がしだいにまるみをおび、明日は満月という夜、女はいつもとちがって、 うちしずんでいたが、やがてなみだながらに話しはじめた。
「今までかくしていましたが、わたしは人間ではありません。この池の主の大蛇(だいじゃ)なのです。 下界に下ってここにすんでいましたが、ようやく年と月がみちて、天にのぼる日がきました。明日がその日です」

  おどろく庄治から目をそらし、女はことばを続けた。
「わたしが天にのぼるそのとき、村も山もおし流されて、すべて泥海になり、村の人はみな死ぬことになっています。 でも、あなただけは、死んではいけません。今夜のうちに、できるだけ遠くへにげてください」

  問いかけようとする庄治をおしとどめるように、女はさらにいった。
「このことは、決して人に話してはいけません。人に話せば、あなたの命はありません」
と告げるや、女は悲しげに池の中に消えて行った。

  庄治は、村人が死ぬのを見すてて、にげることなどできないと思った。 だが、村人に話せば、自分は死ななければならない。
  庄治は、なやみぬいた末、たとえ自分は死んでも、大ぜいの村人を、助けようと決心した。
  庄治は、急いで村へ帰ると、村人たちにこのことを知らせた。

  村は、大さわぎになった。
  みんなは、どうしてよいかわからないでいた。 なかには、村から逃げ出そうとする者もいた。

  そのとき、一人の老人が、
「みんな、いいか、大蛇は鉄気をきらうと、むかしから言われとる。
どうじゃ、明朝までに、村じゅうの鉄っけのものをかき集めて、みんなであの池に投げ込んだらどうじゃ」

  明け方、村じゅうの鍋(なべ)、釜(かま)、鍬(くわ)、鎌(かま)、鋏(はさみ)、 庖丁(ほうちょう)などの金物が、一つ残らず集められた。
  村人たちたは、これらの金物を、つぎつぎに池に投げこんだ。

  池は、鉄っけでみるみる血のように赤くそまった。
  すると、にわかに黒雲が天をおおい、あたりは闇(やみ)につつまれ、雷鳴(らいめい)がとどろき、 突風(とっぷう)とともに、大雨がなぐりつけるようにふりだした。村人たちは、おそれおののき、 岩かげに身をひそめ、抱きあってふるえていた。

  やがて、風雨と雷鳴は、うそのようにおさまり、太陽がまぶしく照りつけていた。
生きた心地(ここち)もなかった村人たちが、おそるおそる岩かげから出てきて、あたりを見まわすと、 池には、のたうちながら死んだ大蛇がうかんでいた。
  そのさまは、何かをのろうようなものすごい姿だった。

  そして、村人たちは、
「すんでのところで、村は全滅するところだった。これも庄治さんが、 知らせてくれたおかげじゃ。ありがたいこった。庄治さんに、礼を言わねば」
  といいながら、日和見坂(ひよりみさか)にさしかかると、草むらに庄治がたおれていた。
それは、まるで大蛇にしめ殺されたように、全身にうろこがつきささっていて、すでに息がたえていた。

  その後、村の人々は、いのちがけで村を守ってくれた庄治のために、日和見坂のところに供養塔をたてて、 その霊を祀ったということです。
  このことがあってから、あの青々とした池の水は、鉄っけで血のように赤くなり、 魚もすまなくなったということです。
  そして、誰いうとなく、この池を「庄治が池」と、呼んでいましたが、 いつのまにか「精進ヶ池」と呼ばれるようになったということです。



―――― おしまい ――――


(かながわのむかしばなし50選)より

  ● 精進ヶ池・解説文  

  「精進ヶ池」は、「精進池」とも「少神ヶ池」とも書かれていますが、 江戸末期の書物には、「庄治(しょうじ)が池」、または「生死(しょうじ)が池」と 書かれたものもあります。
  「ショウジン」が「ショウジ」となり、庄治(庄次)という人の名を連想させ、 若者と池の主の悲恋物語になったのだろうか。
  また、主人公の庄治(または庄次とも書くものもある。)を、木綿問屋の倅(せがれ)で、 名を金之助としているものもあります。

  精進ヶ池の池畔およびその周辺には、鎌倉時代後期に建てられた石塔や磨崖仏(まがいぶつ)などが多くあって、 現在は『元箱根石仏群』として保存されている。

  池畔にある石塔の一つ、多田満仲の墓とされる宝篋印塔(ほうきょういんとう)には、 永仁四年(1296)五月四日、正安二年(1300)八月二十一日などの日付がみられ、 正安のときの供養導師として、良観上人と記してあるのは、鎌倉・極楽寺の開祖、 忍性(にんしょう)のことであろうといわれている。
  また、いま一つの宝篋印塔は、「八百比丘尼(はっぴゃくびくに)」の墓と呼ばれている。
八百比丘尼とは、八百歳もの長い間生きて、諸国を巡国し歩いたという伝説上の女性であり、 ときとして、山姥や妖女として語られることもある。

  芦之湯の方へ五百メートル下ると、「曾我兄弟の墓」と称される五輪塔二基がある。
その傍らに「虎御前の墓」といわれる小ぶりの五輪塔があり、その地輪には、地蔵像が刻まれて、 「永仁三年十二月・・・」という文字が見られる。
  永仁といえば、鎌倉・北条時宗(ときむね)の次の貞時(さだとき)が、 鎌倉幕府の執権として権力を握っていた時代でもある。

  精進ヶ池周辺には、このほかにも「二十五菩薩」と呼ばれる磨崖仏がある。
現存するのは、二十四体ですが、そのうち二十一体までは、地蔵菩薩の立像で、 銘文から永仁元年八月十八日の建立であることが記されている。
  この付近には、「賽の河原」と呼ばれる場所や、地蔵堂があったことからも、 かっては、地蔵信仰の霊地だったのではないかとも言われている。

  この信仰は、平安末期から民衆に広まり、鎌倉・室町時代にかけて、盛んになり、 江戸時代には庶民信仰として定着し、今日までも続いている。
  もともと火山帯である箱根には、今も大涌谷・小涌谷などの噴火跡があり、 硫黄臭と水蒸気がたちこめ、荒涼とした風景は、地獄図を連想させるものであったのだろう。
  全国に点在する「地獄谷」や「賽の河原」とよばれる場所には、地蔵信仰の遺跡が少なくない。

  仏説では、仏界には、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六つの冥界があって、 一切の衆生は、善悪の業によって、そのどれかに赴くものとされている。
これを「六道」といい、そこへ行く道の辻が、いわゆる「六道の辻」であり、 六道で迷い苦しんでいる衆生を教化(きょうげ)し、救済するのが地蔵菩薩であるとされている。

  精進ヶ池周辺は、そうした遺跡の代表的なもので、この辺一帯を「六道の辻」とみたて、 あの世とこの世をつなぐ場所と考えたのだろうか。
  精進ヶ池は、箱根の「六道の辻」そのもので、これを「生死の池」とし、 磨崖仏の背後にある宝蔵ヶ岳を「生死の山」とも呼んだ。死者は、この世(生)であるこの池のほとりから、 あの世(死)である死出の山へと上って行く、と考えられていたのかもしれない。

  しかし、精進ヶ池がこれら地蔵信仰の遺跡の中心的位置にありながら、このはなしは、 それとは異質な、若者と池の主とのよくある話になっている。
  

 (記念碑/その他)
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