2010/05/12

虎御石


【  12.虎御石(とらごいし) /(大磯町)  】

  
 大磯は、江戸時代、東海道の宿場でした。この話は、江戸時代よりむかしの鎌倉時代の「曾我兄弟の仇討ち」で知られる、 兄・十郎祐成と大磯宿の遊女・虎御前との、はなしがもとになって語られたものと思われる。
「曾我物語」には、たくさんの伝説、逸話が語り継がれてきた。この話もそのなかの一つであろう。




  むかし、東海道「大磯の宿」に、山下長者(やましたちょうじゃ)とよばれていた人が、住んでいました。

  長者には、跡取りの子がなかったので、高麗山(こまやま)のふもとの、 虎池弁財天(とらいけ・べんざいてん)のお堂でおこもりをして、「どうか子どもを授(さず)けてください」と、 お祈りをしました。
  すると、満願(まんがん)の夜に、弁天(べんてん)さまが夢の中にあらわれて、
「汝(なんじ)の枕元(まくらもと)に、小石をおく。これに祈れば、望みのごとく子が生まれよう」と、お告げがありました。

  つぎの朝、長者が目をさますと、枕元に小石が置いてありました。
長者は、弁天さまのことばどおり、枕元に置いてあった小石を、家に持って帰り、いっしょうけんめいにお祈りしました。
  そのかいがあったのでしょう。やがて女の子が生まれました。
虎池弁財天のお告げでさずかったので、長者は、この子に「虎女(とらじょ)」という名前をつけました。

  枕元にあった石は、はじめは小さなものでしたが、虎女が育つにつれて大きくなっていき、 とうとう子どもの背たけぐらいもある、細長い大きな石に成長しました。

  虎女は、年ごろになって、曾我十郎祐成(そが・じゅうろうすけなり)と、愛し合うようになりました。
  祐成は、弟の曾我五郎時致(そが・ごろうときむね)とともに、父の仇(かたき)、 工藤祐経(くどう・すけつね)を討(う)とうとして、つけねらっている身でした。

  ところが、祐経の方でもそのことを知っていて、身の安全をはかるために、先手を打って、 曾我兄弟を討ち取ろうと、二人の命をねらっていました。

  ある夜、祐成がいつものように、虎女のもとをたずねていくと、待ちかまえていた敵(てき)が、 遠矢(とおや)を射(い)かけてきました。
  その時、どこからか大きな石が飛んできて、矢をうけてくれたので、 祐成は、あやういところで命拾いをしました。

  あくる朝、虎女が見ると、虎女とともに育ったあの石に、矢の当たったあとが、 はっきりついていました。
  虎女は、この石は「身代わり石」と名づけ、ますますたいせつにしました。

  虎女の死後は、虎女の石という意味で、「虎子石(とらごいし)」とか、 「虎御石(とらごいし)」とよばれるようになりました。

  その後この石は、大磯宿(おおいそじゅく)の鴫立沢(しぎたつさわ)のあたりにあったのを、 江戸時代の文政(ぶんせい)ごろに、法華宗・延台寺(ほっけしゅう・えんだいじ)の番神堂(ばんしんどう)に移されたということです。



―――― おしまい ――――


(かながわのむかしばなし50選)より

  ●  虎御石・解説文

  「曾我物語」は、鎌倉時代、工藤祐経(くどう・すけつね)に殺された、 父・河津祐泰(かわずの・すけやす)の仇討ちを誓った、兄・十郎祐成と弟・五郎時致の物語である。 幼くして母が曾我祐信(そが・すけのぶ)と再婚したため、曾我の姓を名乗ることになる。

  建久四年(1193)五月二十八日、源頼朝(みなもと・よりとも)が、 富士の裾野で巻き狩りをしたおりに、御供をしていた工藤祐経のすきをねらい、亡父の仇を、討ち果たすことができた。
  しかし、十郎祐成は新田忠常(にった・ただつね)のために討たれ、五郎時致は、五郎丸という大力者に、捕らえられてしまう。
  五郎は、頼朝の面前で仇討ちのいきさつを述べた後、殺されてしまう。この時、兄・二十一、弟・十九歳であったという。(満年齢)


 この事件は、のちに「忠臣蔵」で知られる赤穂浪士の討ち入り事件、荒木又右衛門の伊賀上野・伊賀越の仇討ち(あだうち)事件、とともに日本三大仇討ちとして語り継がれ、江戸時代には歌舞伎や能、浄瑠璃、講談などの題材として庶民・大衆のなかに広まり、やがて各地に多くの伝説を残すことになる。 それらの多くは歌舞伎や浄瑠璃で語られた物語に起因すると思われる内容のものがほとんどである。

  大磯の宿の遊女であった「虎」は、通称「虎御前(とらごぜん)」と呼ばれ、兄・十郎祐成との親密な関係が知られていて、 江戸時代後期に編纂された「新編相模国風土記稿」によると、虎と十郎祐成の親密な仲をねたんだ他の遊客が、十郎を襲ったともしている。


  鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』によると、仇討ち直後の建久四年六月一日の条に、 「曾我十郎祐成の妾大磯の遊女(虎と号す)を召出して喚問したが、罪が無いことが分かったので釈放した」とあり、 同月十八日の条には、「故曾我十郎の妾大磯の虎は、この日、亡夫の三七日の忌辰(きしん)を迎え、 箱根山別当行実坊において、仏事を修した。和字(仮名のこと)の諷誦文を捧げ、葦毛の馬一頭を、旋物として差し出した。


 この馬は十郎祐成が最後に虎に与えたものであり、虎はこの日まで髪をそらぬものの、墨染めの衣に袈裟をつけていたが、 今日出家を遂げ、信濃国(長野県)善光寺に向かった。年十九歳であった。これを見た僧侶、悲涙を拭わぬはなかった」とある。


これらの事からも、この事件が実際にあったとする説が有力であるが、詳細は不明である。

  その後、虎は大磯の高麗寺に住し、草庵を結び、十郎、五郎兄弟の菩提を弔い、64歳で
生涯を終えたとも、紀州熊野(和歌山県)に赴いて、寛元三年(1245)に七十一歳で没したとも、諸国を巡って菩提を弔ったとも伝えられているが明らかではない。 そのほか東北から九州まで多くの伝説を残している。

 江戸初期の紀行文などを見ると、虎御石は旧東海道の街道沿いの道端にあり、若い衆などが、力試しに持ち上げたり、 転がしたりしていたとある。 もともとは、関係なかったものを、数多いい「虎御前」関係の伝説の一つとして語られてきたのかも知れない。


  ( 関連事項/その他)

● 延台寺の「虎御石まつり」

 神奈川県大磯町の国道1号(旧東海道)沿いにある「延台寺」には、「虎御石」と伝えられる石があり、曽我兄弟が仇討ちを果したとされる旧暦の五月二十八日に因み、毎年・5月28日(現在は5月の第4日曜日に変更)に「虎御石まつり」が行われます。

「虎御石まつり」
伝説の霊石「虎御石」











 お寺の伝承によれば、「曽我兄弟」亡き後、19歳で尼となった虎御前が生涯を過した草庵(法虎庵)を、永禄年間(1558年)に現在の場所に移築、その後荒れ果てていた草庵跡に、慶長4年(1599年)、日蓮宗・身延山久遠寺第19代法主の日道上人が延台寺を開山したと伝えられている。 境内には平成16年(2005年)に「法虎庵・曽我堂」が再建され、「霊石・虎御石」のほか、虎御前19歳剃髪の像、曽我兄弟座像などが奉安されている。

(まつりの内容)
 ・ 「虎御石」おねり
 ・本堂前特別法要
 ・「虎御石」御開帳(直接手で触れて願いをかけることができる) 

● 場 所
  宮経山・延台寺(日蓮宗) : 神奈川県中郡大磯町大磯1054

● 交 通
  JR東海道線、「大磯駅」下車 徒歩7分









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