2010/05/11

小栗判官・照手姫


【 11.小栗判官と照手姫 /(藤沢市・横浜市・相模原市) 】

  
 このはなしは、藤沢市の時宗総本山、遊行寺(ゆぎょうじ)の支院・長生院(ちょうしょういん)に伝わる 『小栗略縁起(おぐりりゃくえんぎ)』をもとにしたもので、長生院の裏には、小栗判官と照手姫のものと伝えられる墓がある。
  江戸時代、浄瑠璃や歌舞伎の演目として語られるようになると、各地にいくつかの伝説がつくられることになる。
  これもそのなかの一つで、後世、伝説として語り継がれたものであろう。




  むかし、常陸国(ひたちのくに)真壁郡(まかべごおり)の小栗城(おぐりじょう)に、 小栗孫三郎満重(おぐりまごさぶろうみつしげ)という大名がいた。

  満重は、知勇ともにすぐれたりっぱな人で、当時、関東管領(かんとうかんれい)として、 関八州を治めていた足利持氏(あしかがもちうじ)に、深く信用されていた。
  しかし、そのために他の大名たちからは、ねたまれるようになっていった。

  大名たちは、持氏に向かって、
「小栗城主満重は、自分が関東管領になりたくて、ひそかに謀反(むほん)の機会をうかがっております」
と、告げ口をした。
  これを真にうけた持氏は、大軍をさしむけて、小栗城を攻め落としてしまった。

  戦いに敗れた満重は、十人の家来を連れ、三河国(みかわのくに)をめざして、 落ちのびていったが、とちゅう藤沢の宿に近い横山大膳(よこやまだいぜん)という者の館に立ちよった。
  そこにとどまるうちに、満重は妓女(ぎじょ)の照手姫(てるてひめ)と親しくなり、夫婦になる約束をした。
  横山大膳は、実は旅人をだまし、殺して金や、品物を盗む盗賊(とうぞく)だった。
満重たちが、何も知らずに泊っていたので、いい獲物がかかったと喜んでいたが、十一人の勇士が相手ではかなうはずがない。

  そこで横山大膳は、鬼鹿毛(おにかげ)という荒馬を引き出し、これを乗りこなしてみろと、すすめた。
この荒れ馬に、満重をかみ殺させようとしたのだった。
  しかし、満重は、もともと馬術の達人だったので、よしとばかりに飛び乗って、難なく乗りこなしてしまった。
  当てがはずれた横山大膳は、最後の手段を取ることにした。酒宴(しゅえん)を開き、だまして毒入りの酒を、飲ませることにした。
  それを知った照手姫は、満重に知らせようとしたが、すでに遅く、満重主従は、毒入りの酒を飲まされ、倒れてしまっていた。
  横山大膳は、金や品物を奪うと、十一人のしかばねを手下に言いつけ、上野原(うえのはら)へすてさせた。

  その夜、藤沢宿にある遊行寺の大空上人(たいくうしょうにん)が、ふしぎな夢を見た。
夢のお告げにしたがい、上人が上野原へ行ってみると、はたしてそこには、十一人のしかばねがあった。
  よく見ると、お告げどおり十人の家来たちは、息絶えていたが、満重だけは、かすかに息をしていた。
  上人は、家来たちをほうむると、急いで満重を寺へ連れ帰った。

  上人は、お告げにしたがい、満重を熊野(くまの)に送り、温泉で体を治させることにした。
  上人は、満重の胸に札をつけ、荷車に乗せた。札には、「この者は、熊野の湯に送る重病人である。 たとえ一歩でも車を引いてやる者は、千僧供養(せんぞうくよう)にまさる功徳(くどく)を得よう」と書いてあった。
  藤沢から紀州熊野(きしゅうくまの)まで、大勢の人びとが、車を引いて送ったおかげて、 満重は熊野に着き、熊野権現(くまのごんげん)の霊験(れいけん)と温泉のききめとでよみがえることができた。

  満重は、一族のいる三河へ行き、その力を借りて幕府にうったえた。
  生死の境からよみがえったふしぎさが、人びとの心を動かしたのであろう、満重は、以前よりも高い位(くらい)をさずけられ、 領地(りょうち)をあたえられた。
  こうして常陸(ひたち)に帰った満重は、兵をひきいて藤沢に戻り、横山大膳を討つと、遊行寺に詣り(まいり)、 亡くなった家来たちの菩提(ぼだい)をとむらった。

  いっぽう、照手姫は、満重主従が毒をもられた後、横山大膳の館をぬけ出したが、 武蔵国・久良岐郡・六浦(むさしのくに・くらきごおり・むつら)で、一味の追手につかまってしまった。
そして、近くの川に投げ込まれて、海へと流れていった。
  だが、日ごろ信心していた観音菩薩(かんのんぼさつ)のご利益(りやく)で、おぼれることなくただよっているところを、 漁師に救い上げられ、かくまわれた。
  ところが、助かったのもつかの間、漁師の女房が、照手姫の美しいのをねたみ、人買商人(ひとかいあきんど)に売りとばしてしまった。

  この時から、照手姫の長いさすらいの旅が続いた。
  幾年月(いくとしつき)がすぎ、美濃(みの)の青墓(あおはか)で働いているところを、満重に救い出され、ようやく二人は幸せに暮らした。
  満重が亡くなった後は、照手姫は尼(あま)になり、遊行寺の閻魔堂(えんまどう)にこもり、夫の供養を続け、一生を終えたということです。



―――― おしまい ――――


(かながわのむかしばなし50選)より

  ●  小栗判官と照手姫・解説文

  「小栗判官と照手姫の話」の最も古い記録は、室町時代に書かれた『鎌倉大草子(かまくらおおぞうし』に記述されているものと、言われている。
遊行寺の『小栗略縁起(おぐりりゃくえんぎ)』とは、少し違っていて、「応永三十年(1423)の春、常陸国(茨城県)の住人・小栗孫五郎満重が謀反を起こしたので、 足利持氏は諸将を出動させて、小栗城を攻め落とした。
  満重は三河国(愛知県)へ落ちのびた。

  その子、小次郎助重は、関東に残っていたが、あるとき相模の権現堂という所で、盗賊がいるとも知らず一夜の宿を借りた。
賊は、小太郎が金持ちらしいので、毒酒で殺そうと謀ったが、酌に出た「てる姫」という遊女が、小太郎に毒酒であることを教えた。
  そこで毒酒を飲むふりをして、賊どもが酒に酔っぱらったすきに宿を抜け出し、藤沢の遊行寺に駆け込むと、上人に助けを求めた。
哀れに思った上人は、弟子二人を付き添わせ、無事三河国まで送りとどけた。

  盗賊たちは、酔いから覚めると、小次郎が逃げたのを知り、腹いせに宿の主人や、てる姫を捕らえ、川の中に投げ込んだ。
てる姫は、水に流されたが、川下で岸に這い上がり助かる。
その後、永享年間の頃に、小次郎は家来を連れ三河から藤沢へ来ると、命の恩人であるてる姫を探し出し、手厚く礼を与えた。
そして盗賊どもを討ち倒した。
  江戸時代になると、この話が語り物となって、脚色され、説経浄瑠璃の 『小栗の判官』や、近松門左衛門の『当流小栗判官』、 文耕堂の『小栗判官車街道』、その他歌舞伎の演目に取り上げられた。
そして脚色が繰り返されたために、いろいろな異説が生まれることになる。



 ■ 説経浄瑠璃『小栗の判官』

  説経浄瑠璃『小栗の判官』は、江戸時代の初期、寛永年間(1624~43)ごろに、 すでに台本として書かれていたようである。
ここでは、小栗判官は、三条高倉の大納言兼家の嫡子として登場する。

・・・・・・・・・   あらすじ   ・・・・・・・・・

  故あって常陸国に流されて、暮らしているうちに、武蔵・相模の郡代横山の娘、 「照手姫」のうわさを聞き、妻問いの文を送り、横山の館へ乗り込む。
  娘は小栗を見て好意を抱くが、その兄弟が小栗の出現を不快に思い、人食い馬に乗せて、食い殺させようと謀る。
  しかし、馬術の名人小栗は、秘術を尽くして荒馬を乗り回す。

  そこで、兄弟たちは、毒酒を盛って小栗の命を奪うが、藤沢の遊行寺の上人のはからいで、遺体は土葬にされる。
  姫も兄弟たちに憎まれて、海に流されるが、幸い漁師に助けられる。
しかし、人買いの手に渡り、美濃国(岐阜県)青墓で、つらい水仕事に明け暮れる毎日であった。

  小栗は、死の直後、閻魔大王のもとへ連れて行かれるが、善人だということで、再びこの世に帰されることになった。 このとき、「小栗判官の遺体を、熊野本宮の湯に浸せよ」と書いた、藤沢の上人宛の書面が添えられていた。

  小栗判官の墓から、餓鬼阿弥が現われる。これが小栗判官の変わり果てた姿だった。
  上人は、書面を読むと、餓鬼阿弥を車に乗せ、「この車を引くものは、供養となるべし」との木札を胸に付けてやる。 車は、代わる代わる檀那の手で引かれた末、無事、熊野に着く。

  餓鬼阿弥は、三七日の御湯に浸り、もとの小栗判官の姿に戻った。
  小栗判官は、都に上り、両親を訪ねると、帝に事の次第を申し上げた。
帝も御感浅からず、小栗判官は常陸・駿河・美濃を賜ることになる。

  出世した小栗判官は、美濃国(岐阜県)の青墓を訪ねると、照手姫と再会し、 都へ連れて帰えり、幸せに暮らした。
  また横山一族らは、罰に処せられることになる。



  (記念碑/その他)
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